ここで挙げている、「ゲーム性」という語を巡った当時の思索に触れたせいだろうか。自分が保持することばの定義を、普段よりも気にし始めた。特にレヴューや批評でよく使われる「〇〇性」や、あらゆる分野において肯定的に使われる「愛を感じる」といった表現には改めて警戒するようになった。かくいう自分もこれらを安易に使った覚えがあるし、今でも頼る時がある。だが、これら単体では曖昧でなんとも頼りない語であるということを忘れてはならない。いかなる性質も愛も、明確な色付けをしなければ意味がない。それを明らかにしないままでいると、ただただひとりでに歩き去っていく、独善的な放埓文章となる。放埓を突き詰めれば故・阿木譲氏のように文学として成り立つかもしれないが、そこは自分には達せない域であるし、そもそも願うところでもない。 <ポップは形容であるが、単体の名詞としてもよく使われている。前者はポップなメロディ、ポップな色味といった風に。後者はポップの魅力、ポップの役割、といった使われ方がそれぞれ思い浮かぶ。これらは語源のpopuli(ラテン語)が指す「大衆的」の意味合いを反映している。最大多数を喜ばせ、そこに受け入れられるもの。よりいえば、是であり善しとされるもの。私も(前もって説明することなく)今述べた意味で使うのだが、立ち止まって考えてみれば、そこには我流の解釈が同時に存在していることに気付いた。ポップとは、私と対象のみの間に成立する関係ではない。アンディ・ウォーホル的な視点とでもいうべきか、対象とそれをとりまく状況を含めた現象の一端である。傍観者として眺めた熱狂、つまりその渦に自分は含まれていない。こう書くとスカした見方ではあるが、この感覚は若い頃からずっと自分の内側に根付いている。だから、ポップとは(自分にとって)隔てられた世界の向こう側と言い換えていいかもしれない。そういえば「エモい」といった表現も同類だと思っている。一体いつからこんな風になってしまったのか。 こうなると自分自身の問題になってきてしまう。どれだけ狭い世界でも、周囲の人間を熱狂させている時点でそれはポップに働いているし、さらにいえばそれはポップそのものである。小さなマーケット上でも一つのトレンドとなっている時点でそれはその世界にポップを成り立たせている。 現象としてのポップという認識は、ここ最近「フォーク」(音楽ないし伝承としてのそれ)や、柳宗悦の「民藝」の概念を理解していく過程で、リアリティを抱けるようになってきた。ここまで書いてきた文章も、ポップの対義語としてのフォークという理解に立脚している。大衆的で上意下達な意味合いが強いポップがあるからこそ、フォーク(ドイツ語のvolkが語源。人民、民族といった意味合いが強い)には横一列の関係、対等な人々による営みという意が活きるからだ。もっとも、ポップやフォークということばが今日まで浸透してきた理由には、どちらにも一概に定義できぬ秘儀のような領域があるからだろう。ことばの定義を邪魔するものでありながら、これに触れぬことには定義するにも動けないとも思ってしまう。ことばを使う前から、文章を書く前から苦労することは避けられない。 (23.2/9) |
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