ブリティッシュ・アヴァンギャルド・ミューザック①

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『Ghost Box的憑在論・Radiophonic Workshopから英国地下音楽まで』の続きです

Ghost Boxのカタログやレーベルの周辺にいるアーティスト(たとえば「ビクトリア朝時代のゲーム・ミュージック」をシミュレートするMoon Wiring Club)が英国以外から生まれることは考えにくい。マーガレット・サッチャー時代による米国化、その過程で失われた古き英国の風景を再生していくデカダンな試みは、逆説的に市場第一主義に侵されていく現在を描き出す点でポストパンク的である(2000年代中頃に登場したこともポストパンク・リバイバルの一つと呼びたくなる要因だ)。消費するのみの空虚なノスタルジーとは一線を画した批評的かつ個人的な表現は、マーク・フィッシャーが遺した「ノスタルジーに政治的な次元を与えること」を思い出す。
 Ghost Boxの音楽には死人しか登場しない写真を眺めるようなムードがある。日本で生まれ育った人間としてはキッチュの意味合いを多分に含んだ「レトロ」というイメージが先に来るのは否めないが、レーベルオーナーであるジュリアン・ハウスやジム・ジュップのように60年代後半から70年代末までの英国で育った人間にとっては、当時の左派的な未来主義、楽観的ユートピア思想を音楽へ置換したものなのだ。このことからGhost Boxの音楽が目指す領域は、米ミューザック社製エレベーター・ミュージックの実用性や、ハリウッドのバイロン・ワーナーが提唱したスペース・エイジ・バチェラー・パッド・ミュージック(宇宙時代の独身貴族の音楽)の官能とは似て非なるものである。
経営者にして看板アーティスト/デザイナーであるハウスとジュップにとっての未来は、幼少期に見聞きしていたテレビやラジオづたいに運ばれてきた。公共の電波に奇妙な音楽や映像が乗せられ、当たり前に受け入れられていた事実と現代のギャップ、その埋められぬ記憶のインターゾーンを表現するシュルレアリスティックな試みの成果が、The Focus Group、Belbury Poly、Jon Brooks、Pye Corner Audioらの音楽だ。

一同は50年代後半にBBC内へ設けられた電子音楽スタジオ、Radiophonic Workshopの功績を主張し続けている。Radiophonic Workshopは広告用の音楽や効果音も手がけていたが、もっとも大きな影響を及ぼしたのは『Dr. Who』などのテレビ番組のために作られた音楽だろう。米国やフランスの電子音楽スタジオに匹敵する実験が公共の放送、それもお茶の間向けのエンターテインメントのために行なわれていたのである。BGM(ミューザック)の条件がコンテクストに沿った音楽であるならば、Radiophonic Workshopはアヴァンギャルドでありながらミューザックであった。そして奇妙なことに、英国にはこうした性格を持つ音楽、またはそれ自体について自覚的であるそれが少なくない。

「アヴァンギャルド・ミューザック」という語が音楽批評に用いられた(おそらく)最初の例は、『New York Times』誌79年8月12日号に掲載されたケン・エマーソンによるブライアン・イーノ『Music For Airports』評の冒頭である。イーノは同アルバムのライナーノートで、静けさと考えるための間を生み出すアンビエントは、実用性に特化して不安や疑念などの感情を撤廃したミューザック社の音楽と相反するものであると強調した。エマーソンが音というよりそのコンセプトに対して批評したことは明らかで、彼はイーノがニューヨーク滞在時にプロデュースしたオムニバス『NO NEW YORK』を引き合いに出し、『Music For Airtports』を「イーノ氏が足を運んでいるソーホー周りの前衛音楽家たちの影響を受けた音楽」と断定した。録音はニューヨークへ移動する前に行なわれたものだが、常態化した音楽の規則化への疑問に立脚した点では確かに『NO NEW YORK』と同直線上にある音楽なので、当たらずとも遠からずといった指摘である。まさにニューヨーク滞在中に日本の『ロック・マガジン』誌から受けたインタビュー(28号)内で言及した「地理や季節などの、創作に作用する条件とそれらの上層にある人が直接関与しない領域=アンビエンス」の説明は、ミューザック社が「刺激促進」なるプログラムで体現した音楽観とほのかにオカルトめいている点で似ていた(熱心なミューザック支持者であった科学者リチャード・カーディネル曰く「従業員の好みを無視して機能面だけを追求したプログラムを演奏することで、生産性を直接向上させることも可能である」)。
『Music For Airports』は芸術とミューザックの境目を融解させた、あるいは最初からそれがなかったことを英国側から証明した例であり、エマーソンの皮肉は転じてその根拠となったのである。

 イーノ式ミューザックの原型『Discreet Music』が発表された年、キングストンにいたパフォーマンス・グループCoum Transmissionsは、自分たちをThrobbing Gristleへと改名し、「工業社会の人間のためのインダストリアル・ミュージック(工業音楽)」というスローガンを考案した。アンディ・ウォーホル的な模造(シミュラークル)への執着を抱いていたジェネシス・P・オリッジは、工場作業から戦争までを「労働」と包括し、そこに量産物としての人生を定義した。特定の環境で鳴らされる音(楽)が人間にもたらす効果の研究をレコードやジンで報告し、機械的作業を促進するミューザックと、前線に投入されることを想定した音響兵器を並列したのである。現に第2次大戦下の時点でミューザック社は軍事関係の放送にも着手しており、プロパガンダとしてのエレベーター・ミュージックという事実は、ファシズムを意匠にして命題としていたTGの好奇心と疑問に応えるものであった。
さらにジェネシスたちは、非キリスト教圏的な意味でのオカルティズムを入り口に、米国郊外に残るメキシコ系移民や、ハワイから帰還した退役軍人たちが本国へ持ち帰ったティキ・カルチャーに傾倒し、そのムードを讃えるために書かれた音楽に没頭した。TGにとって、マーティン・デニーやレス・バクスターの音楽は、ミューザックと、後に来たるニューエイジ(もしくはレイヴ)を繋げるトランス・ミュージックとなった。
 TGの音楽は一種のプロパガンダ研究の成果物であり、テープ加工を駆使するパンク版ミュージック・コンクレートでもあった。最終戦争への警戒を呼び掛ける音声が挿入されるモンタージュなどは、ラジオに忠実なサウンド体験といえる。やがてTGは80年に瓦解し、その後ジェネシスが立ち上げたPsychic TVはテレビの訴求力へと目を向けた(MTVが登場する80年代の情報戦においては正しい選択だったのかもしれない)。

工業都市シェフィールドで結成されたCabaret Vortaleもテレビの魅力に引き込まれた。79年に米国へと渡ったバンドは、各局のテレビ番組が24時間フル稼働していることに戦慄する。彼らの目と耳を捉えたのは冷戦時代にもかかわらず底抜けに明るく空虚なコメディショー、ソープドラマ、そして自らの局で説法を垂れ流し続ける宣教師、ジーン・スコットであった。番組を流すために番組で金を稼ぐというスコットのプラグマティックな行動理念は、バンドの大きなインスピレーションとなった(81年リリースの楽曲「Sluggin Fer Jesus」にはスコットの声がモンタージュされている)。
別の材料を挙げるとしたら、Psychic TVも偶像として取り上げたジム・ジョーンズ率いる人民寺院だろう。キャブスが渡米する前年にガイアナで集団自殺(の強要)事件があったことは留意しておきたい。
 テレビの洗礼を浴びたキャブスが、その成果を発表する場をビデオではなくレコードにしたことは当たり前のようでいて、興味深い。米国での見聞をフィードバックさせた『Voice of America』は、おそらくは米国の独立機関・米国グローバルメディア局(U.S. Agency for Global Media)によって運営されている放送局から名がとられている。VoAは69年のアポロ11号による月面着陸などの国家的イベントを集中的に放映したり、キューバなどの社会主義国へ米国の(≒資本主義国の)生活様式を宣伝する役割を果たした。1941年にミューザック社の支配株式を取得して経営権を握り、広告とエンターテインメントを兼ねた番組という様式をラジオに定着させたウィリアム・ベントンは、45年に国務省の広報担当のポストに就いた際にVoAを重要視したとされている。
キャブスの面々がどこまでVoAの背景を調べていたかは不明だが、このプロパガンダ的な背景とジーン・スコットの番組のそれとに共通性を見出すのはたやすく、直接的な言及がないこともあって、ブライアン・イーノ言うところの「アンビエンス」が『Voice of America』には漂っている。これをふまえて、アルバムをロックとしてではなくミューザックとして聴いて(再生して)みることを推奨する。
 翌年の『Red Mecca』を最後に、バンドのテープ工作係であったクリス・ワトソンが脱退した。ワトソンはThe Hafler Trioを経て、なんとBBCの音響技師になる。ここでは省くが、Hafler TrioがキャブスやTG以上にラジオの性格を絶対視したことは重要である。イーノ的なコンセプトの重視と、その情報量とは対称的なメンバーの匿名性は、ミューザック的な「作用する音楽」への執着を意味している。

サッチャー政権の新自由主義的転換によってBBC含めた国有企業への財源は切り詰められ、公的なものの多くが「生産性がない」とみなされた。利益の重視を余儀なくされた放送局への悪影響は著しく、スタッフの脱退が連なった末の98年にRadiophonic Workshopは閉鎖した。
サッチャリズム零年たる79年にNurse With Woundが登場した事実には運命的なものを感じる。当時のロンドンに滞在していたJGサールウェル(Foetus)は過去を振り返る際に「あの頃は形容が難しい音楽はすべてインダストリアル・ミュージックと呼ばれていた」と残しているが、NWWもその例に漏れないものであった。しかし、偏執的なテープ加工による映画的なコラージュはRadiophonic Workshopのねじれた進化系と呼ぶにふさわしく、ステイプルトンがスタジオにこもって作り上げた『Homotopy To Marie』はフォーリー・サウンドと奇妙な電子音で装飾されたBBCのオーディオ・ドキュメンタリーと不気味なほどに似た雰囲気を持つ。NWWの精巧な音のモザイクはTG的なローファイ・ノイズの塊とは正反対であり、中心人物のスティーヴン・ステイプルトンが「粗悪な音質は嫌い」と断言している。これはMystic Mood Orchestraや101 Stringsなどの大手ムード音楽ブランドが、AMラジオではなくハイファイ環境およびFMステレオでの再生を念頭に置いていたことを思わせる。
NWWのアヴァンギャルド・ミューザック性は、カントリーやムード音楽のサンプルが大部分を占めた『Sylvie and Babs Hi-Fi Companion』(裏ジャケットは101 Stringsのジプシー音楽のレコードから切り取られた)で堂々と打ち上げられ、90年代に入ってから加速し続けた。奇しくも『RE/Search』マガジンが主導した「Incredibley Strange Music」にはじまる50~60年代の音楽または映画の再認識現象と並行して、NWWはペレス・プラードによるマンボをモチーフとして濫用し始める。程なくして実現したStereolab、ロックの土壌にエレベーター・ミュージックを持ち込んだバンドとのコラボレーションがなされたことはなにも不思議ではなかった(これに加えて、Neu!やCANのようなジャーマン・ロックへの傾倒でも両者は共通していた)。

次からはStereolabやBroadcastら90年代のブリティッシュ・アヴァンギャルド・ミューザックを追う。

(続)


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(22. 7/28)

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