「アヴァンギャルド・ミューザック」という語が音楽批評に用いられた(おそらく)最初の例は、『New York Times』誌79年8月12日号に掲載されたケン・エマーソンによるブライアン・イーノ『Music For Airports』評の冒頭である。イーノは同アルバムのライナーノートで、静けさと考えるための間を生み出すアンビエントは、実用性に特化して不安や疑念などの感情を撤廃したミューザック社の音楽と相反するものであると強調した。エマーソンが音というよりそのコンセプトに対して批評したことは明らかで、彼はイーノがニューヨーク滞在時にプロデュースしたオムニバス『NO NEW YORK』を引き合いに出し、『Music For Airtports』を「イーノ氏が足を運んでいるソーホー周りの前衛音楽家たちの影響を受けた音楽」と断定した。録音はニューヨークへ移動する前に行なわれたものだが、常態化した音楽の規則化への疑問に立脚した点では確かに『NO NEW YORK』と同直線上にある音楽なので、当たらずとも遠からずといった指摘である。まさにニューヨーク滞在中に日本の『ロック・マガジン』誌から受けたインタビュー(28号)内で言及した「地理や季節などの、創作に作用する条件とそれらの上層にある人が直接関与しない領域=アンビエンス」の説明は、ミューザック社が「刺激促進」なるプログラムで体現した音楽観とほのかにオカルトめいている点で似ていた(熱心なミューザック支持者であった科学者リチャード・カーディネル曰く「従業員の好みを無視して機能面だけを追求したプログラムを演奏することで、生産性を直接向上させることも可能である」)。
『Music For Airports』は芸術とミューザックの境目を融解させた、あるいは最初からそれがなかったことを英国側から証明した例であり、エマーソンの皮肉は転じてその根拠となったのである。
工業都市シェフィールドで結成されたCabaret Vortaleもテレビの魅力に引き込まれた。79年に米国へと渡ったバンドは、各局のテレビ番組が24時間フル稼働していることに戦慄する。彼らの目と耳を捉えたのは冷戦時代にもかかわらず底抜けに明るく空虚なコメディショー、ソープドラマ、そして自らの局で説法を垂れ流し続ける宣教師、ジーン・スコットであった。番組を流すために番組で金を稼ぐというスコットのプラグマティックな行動理念は、バンドの大きなインスピレーションとなった(81年リリースの楽曲「Sluggin Fer Jesus」にはスコットの声がモンタージュされている)。
別の材料を挙げるとしたら、Psychic TVも偶像として取り上げたジム・ジョーンズ率いる人民寺院だろう。キャブスが渡米する前年にガイアナで集団自殺(の強要)事件があったことは留意しておきたい。
テレビの洗礼を浴びたキャブスが、その成果を発表する場をビデオではなくレコードにしたことは当たり前のようでいて、興味深い。米国での見聞をフィードバックさせた『Voice of America』は、おそらくは米国の独立機関・米国グローバルメディア局(U.S. Agency for Global Media)によって運営されている放送局から名がとられている。VoAは69年のアポロ11号による月面着陸などの国家的イベントを集中的に放映したり、キューバなどの社会主義国へ米国の(≒資本主義国の)生活様式を宣伝する役割を果たした。1941年にミューザック社の支配株式を取得して経営権を握り、広告とエンターテインメントを兼ねた番組という様式をラジオに定着させたウィリアム・ベントンは、45年に国務省の広報担当のポストに就いた際にVoAを重要視したとされている。
キャブスの面々がどこまでVoAの背景を調べていたかは不明だが、このプロパガンダ的な背景とジーン・スコットの番組のそれとに共通性を見出すのはたやすく、直接的な言及がないこともあって、ブライアン・イーノ言うところの「アンビエンス」が『Voice of America』には漂っている。これをふまえて、アルバムをロックとしてではなくミューザックとして聴いて(再生して)みることを推奨する。
翌年の『Red Mecca』を最後に、バンドのテープ工作係であったクリス・ワトソンが脱退した。ワトソンはThe Hafler Trioを経て、なんとBBCの音響技師になる。ここでは省くが、Hafler TrioがキャブスやTG以上にラジオの性格を絶対視したことは重要である。イーノ的なコンセプトの重視と、その情報量とは対称的なメンバーの匿名性は、ミューザック的な「作用する音楽」への執着を意味している。
サッチャー政権の新自由主義的転換によってBBC含めた国有企業への財源は切り詰められ、公的なものの多くが「生産性がない」とみなされた。利益の重視を余儀なくされた放送局への悪影響は著しく、スタッフの脱退が連なった末の98年にRadiophonic Workshopは閉鎖した。
サッチャリズム零年たる79年にNurse With Woundが登場した事実には運命的なものを感じる。当時のロンドンに滞在していたJGサールウェル(Foetus)は過去を振り返る際に「あの頃は形容が難しい音楽はすべてインダストリアル・ミュージックと呼ばれていた」と残しているが、NWWもその例に漏れないものであった。しかし、偏執的なテープ加工による映画的なコラージュはRadiophonic Workshopのねじれた進化系と呼ぶにふさわしく、ステイプルトンがスタジオにこもって作り上げた『Homotopy To Marie』はフォーリー・サウンドと奇妙な電子音で装飾されたBBCのオーディオ・ドキュメンタリーと不気味なほどに似た雰囲気を持つ。NWWの精巧な音のモザイクはTG的なローファイ・ノイズの塊とは正反対であり、中心人物のスティーヴン・ステイプルトンが「粗悪な音質は嫌い」と断言している。これはMystic Mood Orchestraや101 Stringsなどの大手ムード音楽ブランドが、AMラジオではなくハイファイ環境およびFMステレオでの再生を念頭に置いていたことを思わせる。
NWWのアヴァンギャルド・ミューザック性は、カントリーやムード音楽のサンプルが大部分を占めた『Sylvie and Babs Hi-Fi Companion』(裏ジャケットは101 Stringsのジプシー音楽のレコードから切り取られた)で堂々と打ち上げられ、90年代に入ってから加速し続けた。奇しくも『RE/Search』マガジンが主導した「Incredibley Strange Music」にはじまる50~60年代の音楽または映画の再認識現象と並行して、NWWはペレス・プラードによるマンボをモチーフとして濫用し始める。程なくして実現したStereolab、ロックの土壌にエレベーター・ミュージックを持ち込んだバンドとのコラボレーションがなされたことはなにも不思議ではなかった(これに加えて、Neu!やCANのようなジャーマン・ロックへの傾倒でも両者は共通していた)。