Ghost Box的憑在論・Radiophonic Workshopから英国地下音楽まで

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マーク・フィッシャーが2014年に上梓した『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』によって、憑在論の名は音楽ジャーナリズム内に広く伝播した、という前提で話を進める。憑在論(Hauntology)とはジャック・デリダが提唱した概念で、大雑把に言えば「すでにないもの」と「いまだ起こっていないもの」のつがい、過去と未来を幽霊的にみなし、その普遍性のようなものの形容である。フィッシャーがこの理をもって音楽を語る際にBurialやThe Caretakerを例示したことで、憑在論は同アーティストたちを論ずるアングルの一つとして用いられるようになった。Burialにおいてはレイヴ・カルチャー時代の残滓、幽霊的にまとわり続ける都市生活者たちの「かつての」未来と夢といった具合だ。しかしフィッシャーや、同じく憑在論というタームを音楽批評に普及させたサイモン・レイノルズが、Ghost Boxというレーベルの音楽に対しても同じ理を用いていることは、BurialやCaratakerほど言及されていないように思える。『わが人生の幽霊たち』にも掲載されたフィッシャーによる評はもちろん、レイノルズが著書『Retromania: Pop Culture's Addiction to its Own Past』(2012』の『Ghosts of Futures Past』の章でGhost Box的憑在論、マーガレット・サッチャー政権以降に失われていった英国の大衆文化と結びついた電子音楽実験とテレビ・ラジオの洗礼を浴びた子供たちによる音楽について長い紙幅を割き、サンプリングという概念が生み出した興味深き結果の一例として論じていたにもかかわらず、である。筆者はこの章のGhost Boxのくだりから、そして同レーベルから放たれる音楽からカヴァー・アートにまで満ちているあの質感からいくつかのデジャヴを見た・・・が、まずはレーベルの説明から始めよう。

Ghost Box

Ghost Boxは2004年に英国人グラフィック・デザイナーのジュリアン・ハウスと、作曲家のジム・ジャップによって設立された。まだレーベルの名前やコンセプトが確立されないうちから、二人は自分たちの音源を収めたCDrを少部数生産し、ウェブサイト上で販売する案を思いついた。ダウンロード販売が身近になりつつあった時代において、書簡的な距離感をもって同好の志同士で繋がるネットワークの重要性を再確認するかのようであった。その手本はFactoryやSordide Sentimentalといったポストパンクの審美主義者たち、またはハウスたちと同じ時期に制作から流通まで自身で展開していたJewelled Antlerだった。これらのレーベルにならい、ハウスとジャップは音楽と同じくらいにジャケットおよびパッケージングも重要視した。デザインを担当するハウスは、Intro UK(88年にカティ・リチャードソンとエイドリアン・ショネシーによって設立されたデザイン会社)に務めており、90年代のポップカルチャーに顕著だった60s〜70s前半のリサイクルに大きく携わっていた。どういうことかは、彼のレトロスペクティブなテイストが発揮されたBroadcast、Stereolab『DOTS and Loop』、Primal Scream『If They Move Kill 'Em 』などのカヴァー・アートを見てもらえればわかるだろう。

ハウスはThe Focus Groupとして、ジャップは Belbury Polyやエリック・ザンといった別名義を用いてそれぞれの音楽を作っている。二人の音楽的ないし文化的な共通点が上述のレトロな趣向であり、それがGhost Boxのカラ一へと発展していく。
ジャップはレーベルの特色について、自分たちの理念を作家と共有することは、作家個人のアイデンティティよりも重要であるとあちこちの取材で答える。The Focus Group、 Belbury Poly、外部アーティストならばジョン・ブルックスといった作家たちは、曖昧だが確固たるヴィジョンを共有しており、それこそがマーク・フィッシャーたちによって憑在論と形容されていくものなのだ。

マーク・フィッシャーはGhost Boxのサウンドを「不気味なものを待ち焦がれること」と表現した。筆者が音で描かれるイメージを要約するならば「古き気味悪き英国」といったところだろうか。ハウスやジャップが幼いころに目にした英国の風景、記憶の奥底に眠るそれらは、再現されるのではなく、CDまたはレコードといったオブジェへと再構築される。寂れた郊外の光景、テレビやラジオで流れるSFXや特殊な音響を駆使した番組、ライブラリ・ミュージックやペンギンブックスのホラー小説がまとっていた気配を、「うろ覚え」かつ直感的に発現させるのがGhost Boxの方針だ。レーベル名は幼少期のハウスが見ていた子供向け番組『Picture Box』にちなむものだが、後述の50~60年代電子音楽への傾倒をふまえれば、モートン・サボトニクが開発したシンセサイザーのための制御装置、その名も「ゴースト・ボックス」ともかけてあることは間違いない。この古き気味悪き英国が生きていた時代をジム・ジャップは「1955年から78年」とみなしている。サイモン・レイノルズが『Retro Mania』内で「78年はマーガット・サッチャーが当選する前の年」と指摘しているように、保守化と新自由主義へ突き進んでいく以前へのノスタルジアがここにはある。アメリカナイズされ、商業的かつ文化的に画一化される英国が置き去りにしていった時代の一部としてのゴースト。

Belbury PolyとThe Focus Groupの音楽は、インスピレーション元である古き気味悪きテレビやラジオ番組の音響と「ムード」を追及している。そこには置き去りにされたままの世界の音と声が鳴り響いており、リスナーはそこに恐怖のみならず、親しみさえも覚えるのだ。例を挙げるならば、フィッシャーとレイノルズの二人が特筆している『The Willows』収録の「Caermaen」がやはり適当だろう。この曲ではサンプリング技術と交霊術が交差している。50年代のレコードから切り取られた英国人歌手の不鮮明な歌声は、意味をはぎ取られた音であるが、「何かを喋っている人の声」として聴く者へと入り込んでくる。英国で生まれ育った人はもちろん、まったく別の時代の別の土地で生きている人(たとえば筆者のような)さえも抱く、ある感情の去来。好奇心と恐怖がない交ぜになり、心が開かれる感覚。筆者はそれをノスタルジアと呼びたい。より細かく指定するならば、スヴェトラーナ・ボイムが『The future of nostalgia』(2001)で出てくるreflective nostalgia(反映的ノスタルジア)の定義を借りるべきだろう。社会通念的な背景を介さない、感覚的な郷愁だ。なお、ボイムの定義にはもう一つ「修復的ノスタルジア」(Restorative nostalgia)もあり、失われた伝統、真理といったものを取り戻すような作用であるとされている。これに関してレイノルズは、『Retromania』の中でJ.Dila『Donuts』をサンプルにして書いている。ヒップホップにおける修復的ノスタルジアとは、アフリカン・アメリカンたちが失われた主権を取り戻すために抱くそれとして形容できるのだ、と。
ちなみに『The Willows』はアルジャーノン・ブラックウッドの古典『柳』(水木しげるも短編の原作として使用している)から名前がとられている。アルバムのリリース後から2年ほどしてから、米国で同名のスチームパンク〜ホラー探偵小説特集誌が発刊されるのはちょっと興味深い。

Ghost Boxのリリースに通底するノスタルジックな質感、音響面でのそれを担うのがエレクトロニクスである。とりわけハウスやジャップが見ていたテレビ番組(彼らはテレビを「ドリーム・マシーン」と称している)から流れる奇妙な音は、BBC内に設けられたRadiophonic Workshopによるものだった。テープの切り貼りとループによって音楽を未知の領域まで拡張するという試みは同時代のフランス、イタリア、ドイツなどで研究されていたミュージック・コンクレートにも通じる。しかし、アカデミズムの領域で行なわれていた諸国の研究機関と違い、Radiophonic Workshopは「番組のために」音響工作に取り組んでいた、いわば大衆的な出自であった。回される予算にも限界があり、当時のスタッフであったダフネ・オラムやデリア・ダービシャーらは工夫を重ねて『Dr. Who』のような番組のサウンドを捻出していた。この番組の音響、そしてSFらしい奇妙なガジェット(タイムマシン、疑似IDカードの役割を果たす「サイキック・ペーパー」など)で彩られる世界観は、明確にGhost Boxへと影響を与えている。これをふまえれば、ジョン・フォックスが2013年にGhost BoxからEP『Empty Avenues』をリリースしたことは正当な成り行きに思える。彼もまたRadiophonic Workshopの仕事を愛し、サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』や『禁断の惑星』のムードをシンセサイザーから見出したことで、パンクにエレクトロニクスを導入したキャリアを持っているからである。

『Retro Mania』でハウスはRadiophonic Workshopの音楽を「なにかの痕跡や記憶から作られたゴースト・ミュージックのようなもの」と形容し、公的機関がこうした音楽を作り、一般大衆がそれを受け入れていた時代を讃えている。
レイノルズはGhost Boxの英国的憑在論を「アスペルガー的な細部へのこだわりによって、文化的参照点を徹底して図式化する傾向にある」と評し、その対照として米国の作家たち、 The Skatersことスペンサー・クラークとジェームス・フェラーロや、ダニエル・ロパティン(Oneothorix Point Never)らMyspace~Youtube以降の作家が生む広大かつ漠然としたキッチュさを取り上げている。生まれた土地の見知らぬ時代の文化に目を向けるという点では、ジョアンナ・ニューサムらフリーフォーク派による土着的かつ神秘的な米国へのまなざし(古くはハリー・スミスによる『Anthology of Folk Music』など)が近いともレイノルズは前置きしているが、80年代のポップカルチャーに触れた時の感情を「タイムトラベルの一種」と表現したスペンサー・クラークらは、通過してきた時代とテクノロジーへのデジャヴ的な関心という点でよりGhost Boxに近い。大きな違いは彼らにとってのドリームマシーンはテレビではなくインターネットであったことだ。

憑在論的オカルト音楽

『Wire』誌2009年8月号にて、デヴィット・キーナンはThe SkatersやEmeraldsといった80年代の残像を映し出す音楽を「hypnagogic pop」と形容した。少々クドい響きのせいか大して広まらなかった名称だが、レイノルズはこの呼び方を「概念的には最も挑発的」と称している。キーナンといえば当note/ホームページでも名前が頻出する、パンク以降の英国オカルティック音楽史『England's Hidden Reverse』(2003)の著者だ。同書で取り上げられている英国地下音楽三巨頭、Current 93、COIL、Nurse With Woundの首謀者たちはいずれも50年代後半から60年代前半生まれ、すなわち『Dr. Who』ひいてはRadiophonic Workshop世代である。三者の音楽はそれぞれ異なる方向性を持てど、過度なコラージュと音響工作によるサイケデリアという点で共通している。古いレコードや映画から音声をサンプリングすることも多く、キーナンはその幽霊的な音世界を上述の「hypnagogic」なグループたちから見出したのだろう。この前提を吟味すれば、インダストリアルという語で包括されがちな三者の音楽に対して従来とは異なる聴取ができることも強調しておきたい。
Current 93とCOILは音のみにあらず、ブラックウッドやラヴクラフトが描く怪奇の世界を見据えた詩を書いている。ラヴクラフト的な非キリスト的宇宙観は、50年代どころか大英帝国よりもさらに時を遡っての欧州異教文化へのまなざしによって加速し、ネオフォークいったジャンルとしても枝分かれする。この事実はGhost Boxを貫通し、50年代にヘンリー・カウエルがケルト伝承に基づいた電子の歌「Banshee」を書いたこととも垂直に繋げられはしないか。
デヴィット・キーナンが「hypnagogic」という語を使用したのは、アリエル・ピンクらのコメントに由来するものとされているが、筆者としてはGhost Boxが稼働し始めた頃にリリースされたCurrent 93『Hypnagogue I / Hypnagogue II』のことを思い出さずにはいられない。マイケル・メイズリーによる自作楽器「ツィンバロン」の音を背にしたデヴィット・チベットの朗読あるいは読み聞かせは、まるでラジオドラマのようにイメージを喚起させる。このようにCurrent 93の作品はところどころでGhost Box的世界観とニアミスあるいは先行しており、たとえば97年に後のコズミック・ホラー小説大家であるトマス・リゴッティが「インスピレーション」として参加した『In a Foreign Town, In a Foreign Land』はRadiophonic Workshop的な電子音響が横溢する耳のための小説といった趣だ。COILのジョン・バランスがフィーチャリングされた『Where the Long Shadows』冒頭では、19世紀のソプラノ歌手アレサンドロ・モレスキの歌声が「Caermaen」のようにループされている。

「ドラッグを使うことなく、意識変革をもたらす」というレイヴ・カルチャー経由のコンセプトこそ存在するが、COILがモジュラー・シンセのみで作った『Worship the Glitch』やTime Machines名義の実験も、彼らなりの憑在論を音で表した結果といえる。このフレーズ未満の音のピースが飛び交うディレクションは当時勃興し始めたIDM~エレクトロニカとの合流を果たし、まさに先日『2』が再発された『Musick To Play In the Dark』シリーズへと結実する。ボーカルにしてCOILの世界観の中枢であるジョン・バランスによる本シリーズの言明は、Ghost Boxの理念と同質だ。

When I was young I was really scared of the dark.
I suddenly thought: I now know fear of the dark is wrong.  In fact, it's comforting. So at that point in my life I embraced (literally) the darkness.
幼い頃は暗闇が怖くてたまらなかった。(中略)しかし突然思った。自分は暗闇を恐れているんじゃなくて、これによって満たされているんだと。その時から文字通りの意味で、私は闇を受け入れた。

世紀末の英国にアーサー王の帰還を希求する一種のネオフォーク的直感と、幼少期の暗闇に対する恐怖と安寧が同居する『Musick To Play In The Dark』シリーズは、英国地下オカルトシーンで発展した独自の憑在論的アウトプットであり、Ghost BoxとBurialの間を流れ行く地下水脈だ。さらに欧州に留まらず、COILは土着的な傾向にある米国Hauntologyとさえも精神的に繋がった。土星人Sun Raへのラヴコールである「Sex With Sun Ra」では、ハリー・スミスがブッキングしたチェルシーホテルの一室で情事にふけるシチュエーションが描写されているのだ。深刻なアルコール依存症に陥ってからのジョン・バランスは2004年に事故で亡くなる寸前まで、地上を去った幻視者たちと交信するような詩を書き続けていた。近年音源の復刻が目覚ましいCOILだが、その文化的・精神的影響について語る上で音楽的憑在論という入り口は有効だろう。

「儀式と教育」を名乗るGhost Boxのコンピレーション。かつてのテレビ番組やBBCラジオが担っていた役割を指しているのだろうか。

番外:インディ・レーベルのロールモデルとして

Ghost Boxはインディ・レーベルとして機能し続けており、Bandcampといったサービスで自給自足が過去よりも容易になった=リスナーと作り手の距離が縮まった時代では先見の明があったように映る。それは拡張ではなく収縮することを知り、自分たちのアイデンティティを損なわない程度に資本主義とのバランスをとるというポストパンク的な精神性だ。アーティストであり、レーベルの共同運営者でもあるジム・ジャップは、The Quietusのインタビューで少しドライな一面を覗かせつつレーベルの「維持」の仕組みを説明する。

Q:あなた方にとってレーベルの成功とは?
 A:我々と親密で、活動が小規模のアーティストが信頼してクリエイティビティを発揮できる場所を継続できるだけの充分なセールスを出すこと。そして自分たちの美意識を保ちつつ、ビジネス面でも自分たちで管理することのバランスをとることです。

 Q:大量のリリースや音楽共有サイトやブログの存在は、リスナーとアーティストの双方にとっての難題です。今日の音楽の価値についてはどうお考えですか。
 A:音楽そのものの価値が下がっているのは確かですが、だからこそ「音楽産業」を意識することなく自分たちのやり方でやっていけるのだとも思っています。ブログへのアップロードやメディア・シェアリングからの影響を少しでも防ぐために、我々も特定のオンラインツールやサービスを利用していますが、それらは現代の風景の一部に過ぎない。我々が興味深い音楽を録音し、それがきちんとパッケージされて文脈に沿った形で提供されるのなら、時代を問わず人々はお金を払ってくれるだろうと楽観的に考えています。

このDIYとビジネスを両立させようとする姿勢は、Ghost Box的ノスタルジアを共有する後発のレーベルにも受け継がれている。4ADからリリースしていることでも知られるPiano Magicのグレン・ジョンソンが2009年に設立したSecond Languageと、同レーベルに触発された英国人イラストレーターのフランシス・キャッスルによるClay Pipeだ(後者については『FEECO』vol.2でも特集している)。

Clay PipeのリリースはGhost Boxと同じく、アメリカ化される前の英国が残していた物悲しくも安堵するムードを伴う。絵本作家でもあるフランシスによるハンドメイドゆえに少部数なパッケージングは、英国のFactory、日本ではSiren Recordsの精神的な家族と呼べるだろう。Ghost Boxの主アーティストであるジョン・ブルックスがClay Pipeからリリースしていることも納得がいく。

筆者はGhost BoxやClay Pipeが追い求めるノスタルジア、その源泉たる英国の風景を共有していない。だからこそ、これらの作品に溢れる「感じ」に親しみと安らぎ、そして若干の恐怖を覚える事実に惹かれる(両親が欧米のものにかぶれていて、幼少期に海外のレコードや絵本がわずかにあったことは無関係ではないだろうが)。欧州的憑在論と同じモノ(=ノスタルジア)が自分の中にも生きており、それを研究、いや追及していくのが当noteひいては筆者の使命ではないかと、日々己に言い聞かせている...とガラにもなく自分のことを話して終わります。


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(22.4/10)