偏る人間なので、どれだけ大量の作品にアクセスしようが結局「自分に」残るものはわずかである。テニスコーツの『Music Exists Disc5』など手に入れていないものもあったが、聴く時期は問題でない。レイアウトというかレスポンシブはあきらめてください。

Laurent Saïet / The call of Lovecraft

その名の通りラヴクラフト神話の作品をテーマにしたインストゥルメンタル集で、曲名も地名又はクリーチャーの名からとられている。サックスで参加しているクエンティン・ロレットは今年出たスティーヴ・ベレスフォードのホラー映画トリビュート・アルバムにもプロデュースとして参加しており、ここまでコンセプトにふさわしい人選もない。
JGサールウェルはノアールや怪奇映画を「ジャズの裏口」と形容していたが、本作はそんなフィルムの中で鳴っていたジャズを地で征くモンド・ミュージックである。この手のブツに目がない私としてはヴィデオゲーム・デベロッパーOddworldも連想した(実際にこのメーカーの作品はラヴクラフトに多大な影響を受けたデザインだらけだ)。
メロトロンによるジャーマン・ロック的ハーモニー、何故か違和感なく混じってくるシタール、叫び声のようなサックス(ロレットはナース・ウィズ・ウーンドのライヴでも度々このような音を出す)など、古今東西時々非実在のエスノが目まぐるしく展開し、疑似神話たるラヴクラフト世界を築き上げる。ノイズは虫や鳥の羽ばたきそのもの...普段ならばこうしたイメージの固定化は音楽を分析する際に邪魔かもしれないが、ここではそれが必要な儀式となる。今年一番のノベルティ・アルバム。
The Space Lady / On the Streets of Dream

キャリアは長くとも残している音源の数は少なめなスペース・レディことスーザン・ディートリヒがアルバムをドロップ。ぼやけたキーボードと年相応のウィスパーボイスで朗々と歌い上げるカバー集である。そのレパートリーはレインボー、ビートルズ、トラフィックといった古典だらけ(最後の曲だけ夫が作曲)。ヨーロッパのアシッドフォークやトラッドの重鎮たちが再評価される傍ら、スーザンが今一つ見向きされていないのは100%西海岸な精神と経歴(ティモシー・リアリーの講義、ドラッグによるオルタード・ステーツ、トドメにシャスタ山でのUFO目撃)、オマケにギターを持たないところが原因か。使っている楽器からアレンジまでオリジナルとは別物だが、その分歌詞や選曲の意図が浮き彫りになるというか、彼女を形成している時代精神と輪廻転生にも近い死生観が露になる(レインボーの曲は原曲PVを見よ)。初めて聴いた時に連想したのがサラミ・ローズ・ジョー・ルイスことリンゼイ・オルセンで、使う楽器の一致(カシオのキーボード)はもちろん、惑星科学の分野で銀河の成り立ちを分析しながら自分を宇宙からやってきたと信じるサラミと、UFOと死後の世界の存在を並列して認識するスーザンは、ヴィジョンに世代の差こそあれど同じロマンティストであろう。化学式に基づいた独特のメソッドから作られるリズムとビートメイキングをこなすリンゼイに対して、ストリート弾き語りを続けるスーザンにとってリズムは、あくまで歌のための添え物である。ヒップホップやエレクトロニック・ミュージックが自らの枠を進行形で揺るがしているという一方で、その逆を征く音楽がすぐそば(リンゼイもスーザンも拠点は西海岸)にあるのは面白い。アナログ推奨。
Laibach / The Sound Of Music

バンドの北朝鮮(DPRK)公演を追ったドキュメンタリー『北朝鮮をロックした日』のサントラに位置するアルバム。映画を観ていないと、これまでのライバッハにつきまとうイメージ(ドス声・鈍重なマーチ風アレンジ・パッと見全体主義)と共に「ゲテモノバンドが北朝鮮で体を張った」くらいの認識で済まされてしまうため、多くの人が映画を目にすることを願う。映画で描かれているのはシステム化社会とその否定の難しさ、その中でルーツを別にする者同士が共通の目的へ向かう過程で起こる連帯と齟齬をである。こう書くと異国間が音楽で繋がる美談という風にも受け止められそうだが、それはその通りであるし、だからこそ「内部より警笛を鳴らす者」という意味を持つ「ホイッスル・ブロワーズ」が劇中で演奏されることのアイロニーも効果を発揮するのであった。トローヴィク監督の狙いなのか素なのか、ダークツーリズム感覚でDPRKを眺めるという傲慢にも近い目線が出てくる瞬間もあり、ライバッハがずっと呼びかけてきた(はずの)「注視すること」は、バンド自身もその例外ではないと説明しているようであった。交渉の結果、DPRKでも親しまれている『サウンド・オブ・ミュージック』のカバーが大半を占め、「アリラン」といった彼の国の音楽も演奏している。そりゃ楽曲単位でも楽しめる箇所は(このバンドにしては)多く、たおやかな始まりを突き破るフラスのドス声はもちろん、西洋と異なるルーツであるアリランのアレンジが生むコントラストも聞き所なのだが、この音楽だけで今回のコンセプトが成り立つわけではないので、どうしても「映画を観て」という答えにたどり着いてしまうのであった。ただ一つ言えるのは、秘密結社的コミュニティなどの形成によって秘匿的(閉鎖的)な存在になることを避け、一貫して表舞台で演じ続ける役者根性があるからこそライバッハは今日までその自我を保てている。権力の注視が欠けすぎ、揶揄にわざわざDPRKを持ち出す人が多すぎなどなど、この国の常識中毒な身としてはヘンテコバンドの珍道中という消費の仕方にはもちろん反対。ほぼ映画の話でスマン!
Current 93 / The Light Is Leaving Us All

黙示録の語り部デヴィット・チベット率いるカレント93が4年ぶりに出したフルアルバム。前作はコウマスのメンバーからジョン・ゾーンまで招いたスーパーグループ的大作であったが、今回はライヴでの演奏を見越してか少数に絞られており、ゲストボーカルも不在。バッキングはすべて第2のメロディであるチベットの歌声を引き立てる(ギターとコーラス、ハーディガーディが最高)。思想家または詩人として、信仰の対象であるクロウリーやウィリアム・ブレイクらと同じステージに立ちつつあるチベットだが、シンガーとしてもコックニー・レベルや、声質は違うけどレナード・コーエン級の貫禄をもつ。
一聴して明らかなのは、竹馬の友であるスティーヴン・ステイプルトンがミックスを手がけていた時期特有のサイケデリックな音像が見当たらないこと。今回のミックスはNWWのメンバーでもあるアンドリュー・ライルズと、クレジットこそないがレイニア・ヴァン・フート(ピアノとエレクトロニクス)の仕事で、幻想的なタッチの音響ながら、そこに諧謔あるいはシュールレアリスティックな試みはない。アートワークやライヴ時のヴィジュアルとして使われるセピア色のポートレート、それが持つ(今はいないが、過去には確かに生きていたとでも言いたげな)二面性はこれ以上ないほどふさわしい。
今回の歌詞はより散文的・同時多発的な物語が連なり、毎度ながら把握するのは一苦労だが、描かれているヴィジョンだけは明確だ。別々の場所と時間で起こる理不尽な不幸や殉教(魔女というモチーフはトレンディ)もろもろ、それらが起こる時でも星々は輝いては落っこちるし、鳥たちは朗らかにその歌を聞かせますよ、という普遍的な風景である(後者の句とアルバムのタイトルが繰り返されるのも実にわかりやすい)。「ゴースト」としてゲスト参加している作家トマス・リゴッティはとんでもなくニヒルな世界観を持っているようだが、それに触発されたであろう雰囲気は、アシッドフォーク路線の最高峰であったインモスト・ライト三部作(リゴッティはこちらにも参加)に近い。ぜひ、良い音で!
REINIER VAN HOUDT / Igitur Carbon Copies (feat. David Tibet)

こちらはレイニアのソロ。本職はピアニストだが、ケージやフェラーリ、ソニックアーツ一派のスコアも度々演奏するかたわらテープ・コラージュも時折披露する。NWWや初期C93のようなパンク以後のフォロワーたちも咀嚼しているところもポイントか。本作はどうやらマラルメによる未完の物語をコンセプトにしたらしく、デヴィット・チベットがここでも朗読役として参加している。ヒグラシの鳴き声からガラスがぶつかり合うような具体音、ロバート・アシュレイのようなブツブツ声までミックスされた混雑ぶりだが、上のC93のアルバムと同様NWW的なぶっ飛び方をしておらず、どこか毅然としている。過剰なオーヴァーダブなどもなく、そこかしこに音を放置しておかない規律のようなものさえ垣間見えるが、それ故にB面の冒頭の足早な展開に緊張感さえ芽生えるのであった。その真面目さと、かくも断片的で不明瞭な音響の共存が可笑しいと同時に美しい...とはいえ、ソラブジの長すぎるピアノ曲をわざわざ演奏するような人なので、そのスポーツマン的偏執を考えれば納得か。今年の春に出たカレント93『The Stars On Their Horsies』はノンクレジットだが、鮮やかなコンクレートぶりは間違いなくレイニアの仕事であろう。あちらもかなり良かった。
Sol Invictus / Necropolis

聖書や故事を歌い、当時落とされた言葉のヴェールを剥ぎ取る形で伝承するカレント93と並ぶネオフォークのパイオニア、ソル・インヴィクタスの新作。コプトやラヴクラフトにまで手を伸ばすチベットと比べて、ヨーロッパと北欧神話に基づくある種自然崇拝的な詩篇を編み続けるトニー・ウェイクフォードはパンク育ちの吟遊詩人と呼ぶべきだろう。盟友デス・イン・ジューン(今年新譜出しました)ことダグラスPは英国に見切りを付けたが、トニーは意固地なまでに彼の地へ留まっている。本作はソル史上最高の洗練とパッケージを見せる内容で、このジャンルにしては奇跡的なまでに「アルバムらしい」。シームレスに繋がっていく効果も大きいのだが、耳当たりの良いエレピのリフやコーラスにより、ほぼ念仏+アコースティックギターという呪いにも近いネオフォークの型が刷新されている。言葉の照準はBrexitという現在進行形の生態に定められており、かつて存在した路線で巨大な墓地へと繋がっていたネクロポリス線を中継点と位置付けるのは、ダグラス的に表現するなら「憂国」とするべきか。当然、トニーもかつて所属していたブリティッシュ・フロント的な大英帝国第一主義に回収される向きもあるが、彼はそうした今の英国(そして世界のあちこち)が逃避先にする「昔は良かった」という無根拠な希望を狙い撃ち、現実を非情なまでにつきつける。更に驚くべきは、トニーは今作をもってソルを凍結(楽器まで売り払った)させ、最初の音楽キャリアであるクライシスとして自らの着火点であるパンクに再び身を投じたことである。
The Hardy Tree / Sketches in D Minor

ハーディー・ツリーは絵本作家フランシス・キャッスルが音楽を書く時の名義である。彼女の手がけるイラストや音楽は総じて過去を描いたもので、前者にはよく第二次大戦前後が舞台として選ばれるし、後者もヨーロッパの朽ち果てた街のBGMといった趣(これがまた良い)で、共通のディティールを持つ。それは個人が抱く限定的な体験を飛び越えており、ヴィンテージやレトロと形容されるのが正しいだろう。
今回の作品はDマイナーのスケッチ集というタイトル通りがそのまま音を示しており、50〜60年代的なヴィジュアル含めて当時のラウンジ的エレクトロニック・ミュージック、レス・バクスターがムーグだけでクラシックを演じた『ムーグ・ロック』あたりを想起させる。そして私はその手のレコードが大好きなのであった。30分超えが2曲というボリュームだが、思い出したかのような手弾きなど、展開に冗長さがないところにキャッスルの手腕が伺える。繰り返すようだが、本作に目新しさはない。が、批評的に退行してみせているわけでもない。近いのはアフター・ディナーやHacoで、骨董屋で見つけた海外の工芸品またはハードオフで古ぼけたジャケットのレコードと出会った時に抱く、あの心当たりのないノスタルジー(と呼んでいいものか?)がある。
Andrew Chalk and Daisuke Suzuki / 山と梨

ノスタルジーといえばアンドリュー・チョーク。今回はサイレン・レコーズの鈴木大介氏と連名で作ったアルバムで、相変わらずパッケージが凝りすぎている。
強弱含めた色彩をそのまま音に置き換えたようなドローンは、まさしくタッチと喩えるのがふさわしい(実際に彼は油彩画や銅版画も描き続けている)。自我や目的、コンセプトの不在をアイデンティティに作られる音楽は数知れないが、チョークの音楽は最初から彼自身であり、そこに発見、革新、実験というタームが入り込む余地はない。日々同じ形を描き続けるのみである。しかし、そんな仏像堀りとも呼べる気質(サイレンはロバート・ヘイといい、そうした作家ばかり集っている)を投影した音が、在りし日を思い出したかのように突然表情を変えることもあって、その人間くささもチョークを追いたくなる理由の一つなのである。音は2015年の『世界の果ての光』以来、抒情的と書くまでもない程に甘ったるい。挿入されるヒグラシの鳴き声はあざとすぎると一蹴できようものだが、今年実際に耳にしたそれよりも、「らしく」聞こえてしまう。記憶の底に澱んだ夏、都合の良い部分だけ蘇生させられては葬られていくその季節。ある種ナルシスティックな時間を許してくれる懐の深さとともに、何ものも少しずつ枯れていく無常さをも描いている。これがまたいい塩梅なのだ。
Jim O'Rourke / Sleep Like It's Winter

チョークの音楽は時に聴き手の鏡にもなるが、ジム・オルークの本作はそうした自己完結を拒むストイックな空気に満ちている。ノスタルジーや法悦と呼ぶには落ち着かない約45分1曲。「作為を失くしたい」が口癖になって久しいが、坂本龍一やトニー・コンラッドのように、今ではその執心が創り手らしさになっている。ドキュメンタリー『完全なる今』の中で嬉しそうにコンラッドを持ち上げるジムさんからは、まるで年齢の離れた自分と出会えた感慨のようなものが湧き出ていた。
bandcamp上で公開しているシリーズの集大成(成功例)的立ち位置にあるもので、無音含めた幾つかの展開から成り立つ(本人は沈黙もリズムのようなもの、と話している)。あちこちのツボに触れ、いくつもの琴線を掠めてくるのだが、程よいところで切れるところもあれば、思わせぶりなまま別のフェーズへ移りもする。この認識間の溝を補完せよと言わんばかりの挑戦的な姿勢は...パンク?いや、本人が言うんだからアンビエントなんだろう。個人的な好みをいえば、00年代後半のオルガヌムを思わせる倍音が出てくる14分あたりに耳が傾いたほか、残り半分を切ってからは昨年に京都で観た空間現代/スティーブン・オマリーとの3マンを想起させた(ギターが壊れるアクシデントに伴い、急遽ドローン演奏になった)。手さぐりだが確実に輪郭を描いていくジャムのような作法は、本作にも如実に表れている。何故かハイレゾ音源を購入したが、正直私にとっては宝の持ち腐れ。求む良環境。
佐藤千亜妃 / SickSickSickSick

上で散々ノスタルジーがどうのと他人事のように書いたが、自分にだって身近かつ俗っぽいそれを感じる時はあり、今年は本作を聴いている間がそうであった。きのこ帝国の佐藤千亜妃が砂原良徳を共同プロデューサーに作った5曲入EP。散見する90s的と評する声にも頷けるが、私の場合はもっと限定的かつ明快で、まずは共同プロデュース砂原良徳の文字、次いで大部分を占めるYS印の音に引き込まれた。ここ数年のリミックス仕事ではなく、スーパーカー、ACOらとの仕事で見せていた音にだいぶ近い。シンセかと思うようなコーラスのエディットから「Bedtime Eyes」の僅かにハワイアンなギターまで、派手ではないが細部にまでYSのロゴがあるかのような仕事ぶりだ(後者は佐藤氏のアイデアかもしれないが)。砂原氏の隠者ライクな性格に象徴される職人気質なディレクションは、如何に制作環境をアップグレードしようとも一目で判断できるフォルムが保たれている。そんなクラフトワークばりのミニマリズムを発揮していると同時に、彼らと同じくらいポップなのがまたカッコよいのであった。音はめちゃくちゃ良く、おそらくはカーステレオのような環境でも耐えうるように施されているであろう、Jpop的デザインのマナーをきっちり踏襲する職人仕事である(その一方で歌謡ハウス「Signal」はイヤホン映えする)。密室で「Prologue」のパンニングと残響を味わってみたい。
佐藤氏はバンドと違うことをやりたいとして今回のソロを発表したそうだが、実はバンドを未聴の私にとっては本作が基軸となった。私はバンドを聴くべきだろうか。実験ゆえにEPサイズなのだろうが、個人的には機能美さえ垣間見えるこの控えめなパッケージもお気に入りである。最後に、泣いている写真をジャケットに使ったのは「しくしく」とタイトルを引っかけたものだと勝手に思い込んでいたのだが、よく見たら涙ではなかった!
Yellow Magic Orchestra / NEUE TANZ

結成40周年記念コンピレーション。テイ・トーワ選曲、砂原良徳リマスター、五木田智央ジャケットという外すことが許されないような出自だが、『GO HOME!』や『UC YMO』あたりは暫く再生しなくていいや、と言いたくなるほど時宣にかなった企画である。『BGM』と『テクノデリック』中心、各人のソロから1曲ずつ収録と書けば小言が多いマニア向けのように見えるが、現在掘り下げられている80'sサウンド(歌謡曲からニューエイジと呼ばれるものまで)と被らない選曲がなされているのは流石のテイさん審美眼。フュージョン色の強い1stからは一曲、ポップすぎる2ndや歌ものばかりの『浮気なぼくら』に至っては未採用なのも、それを考慮してのものだろう。YMOが好きである理由は、どの曲もサラッと作りましたと言わんばかりに苦労の痕跡が見当たらないところと、ある音楽のマナーを踏襲しながらも原典の面影が少ないスマートさ(メタファイヴや坂本龍一『音楽図鑑』あたりにも言える)であり、そこをピンポイントで撃ち抜かれた気分である。もちろん、リマスターも◎。

以上!! では解散。