原田浩『極彩色肉筆絵巻座敷牢』 at カナザワ映画祭

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『FEECO』Vol.3でインタビューして以来、お世話になっているアトランタ在住アーロン・ディラン・カーンズが信奉している原田浩の新作『座敷牢』がカナザワ映画祭にて封切りとなった。映画『少女椿』公開年となる1992年から製作がはじまった大作だが、年月というモノサシでは測れない奇形と高熱の3時間であった。33年かけて、33年かかった、表現の仕方はいろいろだが、今日飛び出してきたことにこの映画の必然があれば、あとはさほど重要ではないはずだ。今後の予定は不明だが、全国を行脚するとも思えず、金沢に引っ越してきてすぐにこんな機会があるとはまさに僥倖。そして映画がもたらす感情で善的なものはほぼ皆無なこともあって、これに直面できた自分の運のよさに神話的激しさが寄与された。
コマの動き、ゲドゲドの色彩、演技の上手い下手から離れた素朴さをコーティングするのが偽悪を通り越して世にはびこり続ける不条理と、それらに対する怒り憎しみ呪いである。モブたちの罵詈雑言からジェット機の轟音、爆弾の炎やちぎり飛ばされる腕や頭すべてに染み込むそれは、フィルムに臭いを与え、音に表情を浮かび上がらせる。カタワの1つ目少年が抱いた希望はすべて砕かれ、唯一の味方だった母と祖母はいろいろな形で殺害(回想ごとに受難の姿が異なる)されることで毎日が形作られる。ただれた皮膚を持つ少女のステレオタイプな昭和の女性像(エロシーンへのこだわりには昭和の男性らしさを感じる向きもあるかな)含めた恋愛観は裏切られるのみである。取り戻せる潔白などありはせず、消せる傷などは傷とはいわぬとの残酷な宣言が毎秒鳴り響く世界が座敷牢こと過去、そして現在だ。宗教的教養あるいはバックグラウンドを持つ人にはグノーシスとでも形容したくなる牢獄としての世界は、しかしあらゆるイデオロギーや世界観に通底する暴力と差別が骨子であることを告げている。

強力な世界への怒りが呪いとして、少年と少女に力を与える。破壊ではなく到達が、脱出が、拒絶が抵抗として挑戦される時、映画のタイムラインは現実とほぼ同一になる。それはそのままの演出があるからともいえるが、上でも書いたように製作が開始された92年から今日まで世界の土台こと不条理と差別があり、同時に時間を貫き続けている怒りと憎しみがあるからこそだ。星の光が地上で目視されるまでに気の遠くなる時間がかかるように、過去は現在に飛来し続けている。スタジオジブリ『もののけ姫』上映当時、わたしは同作を映画館で見ることはなかった。テレビ上映で何度か見たが、歳を重ねるに連れて少し成熟した状態で、映画館で、リアルタイムで体験してみたかったと思うことが増えた。同年の旧劇場版『エヴァンゲリオン』も然り、そこには黄金時代に間に合わなかったという感覚があった。だが『座敷牢』の超越憎悪はリアルタイムなどという限られた枠への固執を粉砕し、今でもなんら変わらず動いているものがすぐそばにあることを教えてくれる。この世は自然の定理のみ、人も建物も焼け跡のオマケにすぎないという色川武大のことばに、シュペングラー的食物連鎖の念を加えた自然としての権力が克明に描写され、その暴風に抗うまでが原田式ヒューマニズムである。血の赤さに古いもくそもなかった。

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(25.9/24)