『ゼノギアス』、悩み、また月末が来る

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相変わらず金欠に追われ、一瞬で月末を迎える。私は爪を噛んだり、爪周りの皮をむくクセがあるのだが、ストレスが由来なのは明らかである。この10年はもうベロベロです。そういう時に限って現実逃避として語学の勉強に精を出したり、無理をして資料を買ったり、取材の申し込みをして、それが通ってしまって、変にやる気が出てしまう。プライベートでも苦痛が多く、とかく面倒くささの息継ぎに本業、まったく金を生まないことに精を出す有様。とりあえず秋にはまた自主で一冊出します。

最近は寝る前に『ゼノギアス』を遊び返している。一応仕事に還元するつもりで始めたのだが、小学生の時以来にやり返してみると、ゲームシステムの粗やシナリオの意味不明さ(筋の通らなさ)をあげつらいながらもハマってしまっている。急ぎすぎたゲームだが、そのおかげでこの歪なバランスとして完パケできたのかと思うと歯がゆいと同時に懐かしい気持ちになる。自分はこの粗さ、曖昧さから受け取っていたモノを、新旧問わずあらゆる場面で求めているのだなあと。そんなゴースト的な感情を追求したく、今と昔をさまよっている。そして、さまようだけで終わらせたくないのだ。ゲームに時間を割くことが(自分にとって)ネガティヴな効果をもたらすようになって幾年、数多の「昔遊んだゲーム」の中からこうして『ゼノギアス』が選ばれたことには何か意味がある、ニンテンドーダイレクトで喧伝されるタイトルやタイムラインで流れてくる話題にいやいやながら反応して見せる生き方よりは、こっちの方が幾分ましなんだ...とかね。なんにせよ、これも今年中に何かしらの形で発表する。ここではドライブ使用したエリィ萌ゑ、くらいのことしか言えん。
しかし、『ゼノギアス』的なもの、というか『エヴァンゲリオン』以降の90年代アニメ的なナイーヴさって藤本タツキの漫画とかにもビンビン(そして善的な方向に発展)な気がするし、『ゼノギアス』が再評価されてもおかしくはない。最新の作品に亡霊的な過去を見ることは、上で書いたような心地よさのようなものもあれば、なんだかロード画面中の暗転に映りこんだ自分の間抜け面を見た時に近いこっぱずかしさもあり、それが世間の熱狂とのギャップとない交ぜになって、たいそう居心地が悪かったりする。居心地の悪さもまた、ゴースト的なモノへのヒントではある。でも、あんまりそっちの方から近づこうとは思わないな。少なくとも昔は熱狂を避けていた。

ゲーム以外では、クラブハウスでプライベートな悩み、というかまあ介護じみた家庭の事情について、同じイシューを共有している人がいないか探した。だが、投資とスピリチュアルの部屋しかない。語学学習は結構あるけど、エスペラントはまったくないね。

(22.4/22)