高橋葉介とあの人この人って繋がりあるのか

まず、最初に高橋葉介センセイがどんな方かはWikipediaとかを見てください。ずっと昔からマンガを描いている、怪奇ロゴパイドなお方です。あがた森魚や坂田靖子と並ぶ20世紀の化石として現存している作家ともいえましょう。このページでは、あまり人付き合いを話さないというか表に出てきて自分を見せない高橋センセイと、他人の付き合いを勝手に推測して悦に浸るというヒマな空間になっています。


高橋葉介と荒木飛呂彦って繋がりあるのか
二人とも、それほど同業者について言及する機会がないように思える。高橋に至ってはほぼ表に出てこないし。荒木の方は、昔の雑誌をあされば多少あるみたいだ。梶原一騎に触発された、とか。これは土台の話という感じなので、あまり膝を打つ感覚もなく。そんな時にXでこんなポストがサジェストで出てきた。

しげの秀一との類似は考えたことがなかったし、それほど納得できるわけではないのだが、高橋やしげのが掲載されていた『SFマンガ大全集』といった雑誌を荒木が読んでいたら同誌が好きな自分としては嬉しい。
自分も憶測の記録として、高橋と荒木の接点を仮定してみよう。
まずは筒井康隆。高橋の代表作『夢幻紳士』40周年記念の名目で作られた画集『にぎやかな悪夢』は、筒井康隆の『にぎやかな未来』をもじったものである。筒井へのトリビュート企画でも高橋は何度か寄稿しており、そのインスピレーション源として何度も公言している。
デビュー期から今日にいたるまで、高橋の作風は「レトロ」と「ブラックユーモア」である。この二つを繋ぐというか、兼任するのがおとぎ話というプロットであり、高橋が何度も同じテーマでマンガを描き続けるのも納得できる。この「レトロ」とは、スタジオジブリというか『カリオストロの城』、『アウターリミッツ』や『顔のない目』といった50~60年代のSFまたはホラー映画、円谷プロ製特撮、そしてレイ・ブラッドベリ、アルジャーノン・ブラックウッド、アーサー・マッケン、江戸川乱歩といった(推理小説と呼ばれる前の)探偵小説ないし幻想文学が混ざり合っている。やや値段の高い駄菓子といえばいいか、いつの世でも懐かしく時代錯誤なエンターテインメントができあがる。デカダンスの方向性にやや違いはあれど、あがた森魚と同じく20世紀の化石といえる。
筒井の小説はこうした高橋流エンタメと相性がいいのか、筒井『おれの噂』と高橋『遊介の奇妙な世界』のように明らかな主従関係もある。善意を斜めから眺める、昨今ではあまり歓迎されない気もする皮肉の視線は、高橋の初期作『ここに愛の手を』といった作品に影響を与えていると思われる。なお、筒井をモデルにしたと思しきモブキャラが後述する『学校怪談』に(黒柳徹子らしき人物とともに)登場している。「黄昏の王国」というエピソードで、未完に終わった小説の続きを読みたがる幽霊が登場する内容だった。その小説の作者が井筒順慶であり、これは筒井の小説『筒井順慶』をもじったものだと思われる。この次週に高橋は「仮面の告白」というエピソードを描いているが、特に三島由紀夫要素はない。作者あとがきの時点では「実は読んでない」とのことである。

荒木飛呂彦の話。荒木が第20回手塚賞を受賞し、漫画家デビューのきっかけとなった『武装ポーカー』を評価したのが当時審査員だった筒井だった。ある意味で漫画家としての荒木の道を引いたわけだが、そのことへの遅れた恩返しなのか、荒木は『ジョジョの奇妙な冒険』内で、筒井の『薬菜飯店』を下敷きにした「イタリア料理を食べに行こう」を描く。
『ジョジョ』以前の『魔少年ビーティー』からして筒井的な作品であった。こまっしゃくれた少年ビーティーが巻き起こすというか周りで起きるというか、『少年ジャンプ』らしからぬブラックユーモアが特徴。『アウターゾーン』みたいな枠の先駆けに思えるのは、荒木が実際に雑誌最後尾の固定ポジションで延々と描いていた姿を見ているからか。ビーティーと高橋の生んだ名キャラクター「夢幻魔実也」(『マンガ少年』版)には重なるものがある。見た目はかわいらしいが、底知れぬ知性を持ち、怒らせた相手には容赦しない。含蓄ある言い回しをすることもあるが、その性格はとらえどころがないところが似ている。ビーティーは標本や化石などの古いものを集める趣味を持つが、古文書から伝承まで、当時を知る者がもういない時代の名残がよく登場する高橋のマンガと親和性がある。

『学校怪談』文庫版7巻より。初出は1999年『週刊少年チャンピオン』50号~52号のどれか。

この「魔少年」こそが高橋と荒木を繋ぐものである。高橋は『学校怪談』収録のあるエピソードで、「魔少年」というワードをタイトルに使用している。
『学校怪談』は、当初ゴア表現ばりばりのホラーオムニバスだったが、後半からキャラクターの設定が固定されてコメディ色が強くなった。その中でもたまにシリアスなエピソードが出てきて、「魔少年」はこれに該当する。
謎のエスパー少年が、遠隔で一般人を死に追いやろうとするところを、同じく霊能力の素質を持つ少年山岸(一応マンガの主人公の一人)が割って入り、二人の対決が始まる。山岸によって少年は敗北を喫し、その後も2回にわたって二人の戦いが描かれていく。この魔少年、ビーティーのように名前が明らかになっていない。仮名やイニシャルですら言及されない。1話限りのキャラクターがやたらキャラ立ちしているという、高橋短編ではよくあるパターンである。高橋はデヴィッド・クローネンバーグ『スキャナーズ』の頭部爆発といったSFX的描写も盛んに取り入れていたが、そうした過去通過してきたエンタメと、後続世代の荒木による超能力バトルマンガの交配としての「魔少年」があると考えたくなるのがファン心理である。誰か対談を企画してくれんかなー。

高橋葉介と小中千昭って繋がりあるのか

長い上に名の挙がる作品をことごとくネタバレしています。読んだ後はどうにかして内容を全部忘れて、作品を読んだり見たりしてみてください。

高橋葉介『学校怪談』が週刊少年チャンピオン誌ではじまったのは1995年06+07号から。前年には森京詞姫『学校のコワイうわさ 花子さんがきた!!』が『ひらけポンキッキ』内で放映され、『学校怪談』と同じ年に『学校の怪談』が東宝から映画化されている。
高橋は早くからホラーを描いてきたといえば間違いでないが、本人も「怖くないでしょ」と話すように、その多くは特殊メイク・特殊効果が売りの娯楽映画的な怖さだ。クローネンバーグの『スキャナーズ』(1981)で表現された頭部爆発、高橋洋が脚本を書いた『リング』(1998)で画面から貞子が出てくる有名なシーンなど、シチュエーションありきである。『学校怪談』は、「それまで学生服を描いたことがなかった」とコメントされているように、いつもの高橋スタイルを流行に乗せた企画でもあったのだろう。当初はスティーブン・キング『ダークタワー』的な西部劇にする案もあったとのことだが、方針転換して正解だったといえる。実際に『学校怪談』は5年ほど続き、高橋のキャリアでは珍しい長期連載となった。初期は1話完結オムニバスで、登場人物がまあえらい目にあって死ぬ。その次の回では何事もなかったかのように同じ人物たちによる別エピソードが描かれる。これが1年と少し続くと、ネタ切れを起こしたなどの理由で、それまで描かれていたキャラクターたちに固有の名前と設定が与えられた。そして主人公格として霊能力者の九段九鬼子センセイが登場する。80年代から銘打たれていた「ヨウスケの奇妙な世界」は、ここにきて高橋留美子の「るーみっくわーるど」てな感じのコメディ色を得る。同時期他誌で連載されていた『地獄先生ぬ~べ~』または『GS美神 極楽大作戦!!』といったエンタメ方向に舵を切ったともいえるが(九段先生がズボラな性格なのはこの二つにも通じる)、往年のファンからすれば『夢幻紳士』の「冒険活劇篇」通称「スチャラカ編」への回帰である。そして『学校怪談』は結果として『夢幻紳士』と接続される。

80年代から自主映画を撮ってきた小中千昭は、1991年に鶴田法男監督『ほんとにあった怖い話』というビデオ作品の脚本を書いている。朝日ソノラマから出ていた雑誌に寄せられた投稿を映像化するものである。ちなみに朝日ソノラマは高橋がデビューした雑誌でもある(その前に持ち込んでいたのが『週チャン』を発行する秋田書店)。1994年には実弟の小中和哉とともに関西テレビ製作の『学校の怪談』に脚本として参加した。冒頭で名を出した東宝映画版とは異なり、ローカル放送しかされていないものだ。これには清水祟や黒沢清らも参加していたとのことで、今見れば豪華なラインナップである。小中はその後『学校の怪談G』や手塚治虫原作『ガラスの脳』(2000)を手がけ、20世紀最後の10年に花咲いた昭和まんが再解釈(ロボット・特撮アニメの分野に顕著だった)にも合流していた。『ガラスの脳』はDVDにもなっているが、『学校の怪談』シリーズはほぼVHSであり、筆者が確認できたものはほとんどない。昔テレビで見たものもあるはずだが、同じような番組も多かったので今となっては区別もつけられない。よって当時の高橋・小中の仕事の話はここまでとする。

高橋と小中が接近した例で挙げられるのは、朝松健監修のクトゥルー神話アンソロジー『秘神界』歴史編(2002 東京創元社)である。高橋は掲載小説の扉絵を描き、小中は『恐怖率』という小説を寄稿している。互いの作品が内容というレベルにおいて近づいた瞬間はいつかというと、『学校怪談』終了後に高橋が『週チャン』で連載開始した『KUROKO』(2000-2001)と、90年代末に小中が脚本を書いたいくつかの特撮・アニメだ。
まずは高橋の『KUROKO』。『学校怪談』と地続きの世界設定であり、映画『メン・イン・ブラック』をモチーフにした影のヒーロー活劇だ。常世の理を人知れず守る「黒衣」の真紅郎と紫奈乃が、新興宗教から正体不明の怪異まで日々相手にする。あるエピソードではラヴクラフト『インスマスの影』を下敷きにしたり、クライマックスでは世界を取り込もうとする「名無しの神」が登場する。名無しの神は『ウルトラQ』の怪獣バルンガを模したデザインで、高橋の原体験の一つである円谷特撮とクトゥルーが接続された。この頃、小中は『ウルトラマンガイア』(1998-1999)で怪獣側というか人類や地球そのものを狙う「根源的破滅招来体」を設定していたが、ラヴクラフトと円谷のミックスを両者が果たしていたのは興味深い。
そして無視するわけにはいかないのが『KUROKO』のクライマックスである。名無しの神と融合した男・金牙が世界そのものを吞み込みかけようとしたとき、真紅郎の妹である黄華から名無しの神の真意が告げられる。地球そのものを含む生命の情報(メモリー)をひたすら欲する名無しの神は、宇宙の「演出家」となり「光アレ」のことばとともに崩壊しかけた世界を再創造する。クトゥルー神話もキリスト教も、弟子が広めては異なる解釈を付与されつつ拡散していった点で共通している。どちらも外部から触れる日本の作家らしいパロディのしかただ。
『KUROKO』4巻より。妹キャラかつ物語の黒幕的ポジに立つ黄華

再創造された世界では、死んだ人間はみな生き返り、別の人生を歩んでいる。黒衣の二人だけが存在しないことになっており、超自然的存在となった彼らは名無しの神とともに人知れず世界を見守る立場について終わる。街には彼らの噂だけが残った。
これに小中が脚本を担当した『serial experiments lain』最終回を連想しないわけがない。街をゆく人々の描写などは、見ているだけで頭の中に「孤独のシグナル」が流れる。
『lain』だけではない。名無しの神が固執する「情報(メモリー)」というワードは、小中が『lain』~『ウルトラマンガイア』と(放映時期という意味で)続けて発表した『THEビッグオー』でもっとも重要なことばである。ここでいうメモリーとはそのまま記憶を意味するものであり、この作品の登場人物はみな40年前の記憶をすべて失っているし、何があったかも記録は残されていない。しかし、本編中のセリフを借りるならば「メモリーは、時折悪夢のようにその姿を見せる時がある」。小中脚本ではいつの間にか共通項になっていた「記憶」そのものが、『THEビッグオー』では主題になっている。

ロボットアニメ『THEビッグオー』(以下・『ビッグオー』)は1999年10月から翌年1月まで1stシーズンが、2003年1月から3月には2ndシーズンが放映された。さとうけいいちが企画した玩具案を起点とする『ビッグオー』は、玩具の販促的内容から派生してレトロフューチャー色の強いアニメとして舵が切られた。『新世紀エヴァンゲリオン』が70年代なら、『ビッグオー』は60年代(バットマン、007、桑田次郎のまんが、トワイライトゾーンetc)であり、そこには当然円谷特撮もインスピレーションの一つに含まれている。1stシーズンで小中は一部のエピソードの脚本と、おおまかな世界設定に携わったが、2ndシーズンではすべての脚本を担当した。控えめにいって『エヴァ』的というかセカイ系の一語でまとめられそうなプロットとなったが、そこには小中(そして高橋)を育てた幻想文学の色味もある。ウィリアム・ブレイクの引用など例を挙げればキリがないため、ここでは割愛する。
さて、『ビッグオー』2ndシーズンは実存をめぐるプロットとなり、自分という存在を担保するものとしての記憶が命題となった。この世界は舞台で、人々はみな与えられた役割を演じているに過ぎないのではないか。シーズン初回と最終回はどちらもこの問いに回答するものであり、二つともほぼ同じ結論に至っている。主人公である交渉人(ネゴシエーター)ロジャー・スミスは、記憶(情報)としてのメモリーがなくとも、自分という存在は成り立たせることができるのだと創造主に向かって叫ぶ。創造主とは、まさに舞台であるこの世界を作った演出家/脚本家であり、自らの記憶を消して舞台に上がる人物として生きていた女性・エンジェルであった(小中は彼女について「自分が書いた登場人物に恋をしてしまった作家」と説明している)。
興味深いのは、この結論が『KUROKO』クライマックスで名無しの神が提唱する「人間は情報の集積に過ぎない」という定義に対して、真紅郎が叫んだ反論と重なるところだ(ついでにいえば、神に類する存在と「交渉する」場面も似ている)。『ビッグオー』最終回では、虚飾の舞台に過ぎなかった世界をリセットしようとデウスエクスマキナ(いきなり絶対的な存在が出てきて、無理やり物語を幕引きする方法)にあたる巨大ロボットが登場し、ロジャーの交渉の果てに世界のリセットと存続が同時に行なわれる。改めて書くが、『KUROKO』は2000年から2001年はじめにかけての作品である。2003年に発表された『ビッグオー』2ndシーズンとの内容的距離の近さには何かしらの必然を探し出してしまいたくなる。

そうしたくなるのは仕方ないのだ。なにせ、もう一つ気になる事例がある。『KUROKO』終了後に、その設定を引き継いで書かれた後日談的短編『リセット』(2002)である。というか『ビッグオー』2ndシーズンの結論により近いのは、むしろこちらの方だ。
『KUROKO』最終回で再創造された世界は、名無しの神が情報(メモリー)から複製した仮の世界であり、そこでは人間が妄想体として暴走する事件が多発していた。それを解決する仕事に就くのが、自称公務員こと「名無しの主人公」である。妄想体とは、人間のコンプレックスが肥大化したようなもので、それぞれ精神分析学由来のものになっている。意匠の一つには高橋が昔から使用する『不思議の国のアリス』の一幕、アリスが巨大化する場面が使われている。そして小中もまた『lain』以前からアリスというモチーフを意識的に使ってきた。
『リセット』ラストは『KUROKO』で真紅郎が叫ぶ「人は情報にあらず」とそう変わらない。自分がいま・ここにいる、それだけで生きる理由としては充分なのだ・・・と公務員は少年漫画風に爽やかにキメる。
『lain』の後に描かれた『KUROKO』と、『ビッグオー』2ndシーズン「より先に」描かれた『リセット』。この構図が、高橋と小中による書簡的な応答に思えてしまうのは仕方ない。あと地味ながらビックリするのが、『リセット』のヒロインの名前は「ちあき」である。このキャラクターは『ホラーM』2000年12月号掲載『オカルトな二人』が初登場で、そこでは「千秋」表記である。

『リセット』名無しの主人公。アタッシュケース片手の姿も『ビッグオー』のロジャー・スミスっぽいかも。ちなみに掲載誌は『マガジンZ』、『ビッグオー』コミック版が載ってたところだ!!

この後、高橋は『悪夢交渉人』(ナイトメアネゴシエーター)なる作品を描くなど、小中脚本の作品とのシンクロというか空似というか、奇妙な縁めいたものを見つけるには困らない。『KUROKO』最終巻あとがきで朝松健をモデルにしたキャラクターを説明する際に、「最近、怪奇・幻想・オカルト小説の先生方と会う機会が多い」と記しているが、ここに小中が含まれていたのだろうか。なんだかそんな気がしてきた。

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