勢いで始めた『ゼノギアス』だが、攻略サイトを横目にササッとこなして先日クリアと相成った。なにぶん過去のプレーから時間が経ちすぎているので、後半の怒涛の展開からは初めて見るような新鮮さ、というか置いてけぼりにされる感じをつきつけられて、なかなかよかった。反面、ゲーム部分、主にダンジョンは苦痛でしかなかった。バベルタワーの無茶なジャンプの要求とか、デウスの無意味なパズルとか。ほぼ殴ってるだけのボス戦なども同様だが、とにかくストーリーを読ませるゲームなんだから仕方ない。DISC2からのアレはそういうメッセージだと受け取っている。それにしてもキスレブの合体ロボのくだりは適当すぎると思ったが・・・。 「ゲームである必要がない」系の大味さは大好物だ。この歪さこそ、90年代末~2000年代初頭に発売されたゲームソフト、それらにこびりつく世紀末の面影として、私が追い求めているものであるから。『ゼノギアス』はこれを狙って出しているわけではないところもまた重要である。雑だが、そういうものが出てくる可能性というか条件が揃っていた時代だったようだ。 長い時を経てやってみた感想。「当時の」『エヴァンゲリオン』以降のフィクションとしてはシナリオがちゃんと完結しているだけ潔く、この点だけでも評価されるべきではないだろうか。しかもカバラや聖書からのモチーフをシンボリックに消費するだけにとどまらず、設定にも還元している。原典にあたった時に作品と結びつく機会が多いことは良作の証。元ネタ探しをただの記号の答え合わせに終始させない世界として、『ゼノギアス』の評価は上がった。肝心の筋書きの整合性がとれていないところもあるけれど、それはDISC2のアレによって置き去りにされた部分とも言える。本質的に無駄なくだりというものが『ゼノギアス』には少ない。ユングだのカバラだの付け焼刃ながらに知った後にプレーしなおすと驚くセリフもちらほらある。 私が『ゼノギアス』を見聞きした時に思い出すのは、ゲーム本体よりも沢月耀さんのサイト『ゲームを語ろう』である。このサイトは90年代末の時点でゲーム批評が大量にアップされており、個人的テキストサイトの要件を満たす、というかその基準にさえなっている(もう一つは『薔薇はあこがれ』。金丸さんってどうされてるんだろ?)。今以上に乏しい地平だった「ゲーム批評」という分野が個人サイトとして存在していたことは、今日だろうが大きな喜びとして私の中で生きている。「楽しかった頃のインターネット」像は人によりけりだが、私にとってはその中核をなす光景であり、ことあるごとにデジャヴとして浮かぶものなのだ。『ゼノギアス』のようなゲーム(と当時の空気)は、それと同カテゴリであるため、この場(『ゲームを語ろう』)にて『ゼノギアス』の名前が挙がっていることは納得できると同時に、よくぞ自分の代わりにやってくれたようなことへの感謝さえ覚える。ちなみに沢月さんはソフト発売後に出版された公式設定資料集にもテキストを寄稿している。公式ながら『ゼノギアス』の欠点を堂々と指摘する文章が収録されているのは驚きだ。チュチュの「バラバラの鏡みたい」と、ジャック・ラカンの鏡像概念を引き合いに出す文章は、無学な自分でさえもラカンについて知りたくなってしまう。なお、『ゼノギアス』では重要人物として絵描きのラカンが登場し、愛する人の肖像画を己の心の映しと看破されるシーンさえあるぞ。 何度も繰り返していることだが、私が『ゼノギアス』やそれと同じ私的カテゴリに位置する作品のことを考え、遊ぶことは、過去の再生産や消費ではなく、いまだ解明できぬ自分の一部を発見するための回り道である。またも繰り返させてもらうと、過去の自分がニアミスあるいは足をつけるもすぐに離れてしまった場所へまた踏み入るためのサインを探している。ラヴクラフトがドリームランドで描いたものとも近い、はずだ。こうした道程が現在の自分のやる諸々の建設的な行動に影響を与えていく。いや、行動を建設的なものにするといった方が正しいか。フェイとエリィが道行く先で感じるノスタルジアによって「現在進行している」出来事が前に進められるように。エンディングのフェイとエリィの自己犠牲についてのやりとりが、一人ではなく二人で考えられることの意味が今になってわかるように。 (22.4/28) |
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