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先週に富山へ行ったら、駅構内で古本市をやっていた。キリがないので1000円以内で決めたところ、フィリップ・K・ディック『戦争が終わり、世界の終りが始まった』(飯田隆明訳)を購入する。いまの気分はフレドリック・ブラウンだが、過去から現在へにらんでくる作家のことを無視することもできず。星の光が目に届くまで膨大な時間がかかっているように、昔の作られたものと現在に出会うことは自然なことである。未来への期待をするのと同じくらい、過去からいろいろを受け取りたい。こんな風に考えていると、ますます世にいう新刊と疎遠になる。それどころか現在に対する反応それ自体が鈍くなり、他人との繋がりも薄くなる。浦島太郎呼ばわりならまだいいが、象牙の塔で暮らしている人みたいに思われるのは心外。5秒でできるSNSの投稿をサボるくせに宣伝だけはまめにするのか、みたいなのも同様。その宣伝さえも全然していないと言われたら耳が痛い。 本棚の一つから見つけたのが史群アル仙さんの単行本であった。2013年ごろに出たやつだと思うので、約13年ぶりにその名と絵を見た。この単行本が出る以前、Twitterに発表されていたマンガを読んでいただけなので、その内容さえも忘れていた。しかし、史群さんのマンガが2012年前後の風景に含まれていたのは事実である。あの頃は今よりも「平成生まれ」(主に90年生まれ)であることが売り文句となり、帯でもこの文字が躍っていた。わたしの同世代の人間もその範疇に含まれていたため、縁もなければ育ってきた環境も違うはずの他人に親近感を抱かせるほどには、年齢というものが一つの目安になっていた。そしてアラフォーの今、少なくともわたしにとって何の価値も持たない。むしろ自分を差し引いて、一個人のことを考えられるようになっただけマシ。 たいていの人は何かしていれば、商業的に成功するしない問わずして航路を変える。厳密にいえば、目的をもってそのルートを選んで進んだり止まったりしていく。大きく変える転機もないまま難破、いや浅瀬をぐるぐるしているだけで15年は経った。履歴書の空白を埋められない人生が続いています。 (26.6/20) |
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