ザ・ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ

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手っ取り早く言うならグローバリズムへの加担を微力ながらも避けたいという気持ちから、その筆頭であるスターバックスの利用は極力控えている。(高いという理由も大きい)。そんな自分でも、スターバックスと並んで資本主義のアイコンとされるマクドナルドにも同じ態度で接しているかというと、そうではない。それどころかマクドナルドには日々感謝しているほどだ。経済的にもっとも困っていた時期、野たれ死を免れたのは間違いなく同ブランドの多摩ニュータウン通り店があったからこそだ。すぐ近くのマンションに住んでいた時期は、ほぼ毎日通っていたと思う。周囲に乱立する大家と同じ姓名を看板に掲げる高級そうな飲食店(それも一軒や二軒ではない)への憎しみを燃やしながら・・・。
 「巨大ファーストフード」のマクドナルドを創った男、レイ・クロックの半生を基に作られた映画『ザ・ファウンダー』を観ている間は内容の把握と整理どころでなく、上に書いた在りし日の西多摩マクドナルド・ライフのことで頭がいっぱいだった。もう少し書かせてほしい。もっとも鮮明に思い出されるのは2014年1月、関東圏が大雪で埋まった深夜のことで、自分は誰もいないレジ前のテーブル席でしんしんと積もる雪を見上げながらホットコーヒーSで暖をとっていた。電気代の節約を控えてか或いは既に料金の滞納だかで止められていたのか、暖房をつけられなかった私の退避先は必然的に徒歩2分圏内・24時間営業マクドナルドしかあり得なかったのだ。マンションの階段が雪で埋もれるくらいの積雪量で寒さも一際厳しいものだった。あの夜移動していなかったら、私は間違いなく凍死していただろう。真っ暗の空と向かいのコンビニよりもまばゆい光を放つ雪を眼前にしたあの瞬間は、精神的に追い詰められていたこともあって軽い神秘体験だった。こればっかりは他人と共有しようがない。

やっと映画の話である。『ザ・ファウンダー』は白人男性レイ・クロックが(何度目かのビジネスである)ミルクシェイク用ミキサーの不振に悩むところから始まる。「鶏が先か、卵が先か」というフレーズにはじまり、全く同じ文句を繰り返すセールストークが無視され続け落胆するレイのもとに、珍しくミキサーの注文が飛び込んでくる。それも8台、間違いかと思うほどの量だ。依頼主はカリフォルニア州の端で飲食店を営むマクドナルド兄弟だった。その店の名も彼らの姓を冠したマクドナルド。店内ではなく車の中やその辺のベンチで食事することを前提にしたドライブスルーシステムと、各工程別に分けられた調理セクションのデザインに感嘆したレイは、マクドナルドの全米チェーン展開を思いつく。兄弟が持つ一号店の経営に口を出さないことを条件に、レイは共同経営者として奔走する。法さえ味方につければ無能も発明者になれると気付いたレイは、経営権という概念を持ち出し、アイデアを生み出した兄弟から経営権を奪うことで、マクドナルドを「マクドナルド・コーポレーション」として今日まで続く世界最大規模のファーストフード・チェーンに進化させる。兄弟には年1パーセントの売り上げが払われる約束だったが、それは紳士協定、いわゆる口約束であり、実際にそれが払われることはなかった。ラストシーンでレイは鏡の前の自分へ、まるでメディアの取材に答えるかのように自信を口にする。それが何よりの原動力になっていることは言うまでもない。

あくまで企業家としてのレイを描いただけなので、マクドナルドを通したグローバリゼーションの批判といった観点は含まれていない。人を「使う側」の目線で描かれてはいるが、逆説的に資本主義下の抑圧、経営者と労働者との不平等性が強調されているかといえば、そうでない。だからこそ、監督たちが捨てなかったメッセージに意識が向かう。それは宗教としてのマクドナルドという見解だ。
チェーン化のためにレイが出資者を探し回るくだりで、最終的にレイはユダヤ系自営業者たちにはじまる、中流一歩手前の労働者層にオーナーを任せるアイデアに行きつく。こうして増えていったチェーン店で働く人の中には後のマクドナルドCEOにもなる人物も含まれていた。レイが教会でユダヤ人たちを説得するシーンはこの映画のもう一つの主題が表れていると感じた。レイ本人のセリフ「マクドナルドは新たな教会となるだろう」がそれを表している。ゴールデンアーチは米国の商業主義を代表していたのではなく、かの地のアイデンティティそのものに近い十字架と国旗に並ぶアイコンなのだ。レイが冒頭で同じセールス文句を繰り返す様は、ローカルテレビで自らのチャンネルを開いて同じ説法を流し続ける宣教師が重なる。物を売るために物を売り、説法を広めるために話を説き続ける。キリスト教と資本主義は同じ拡がり方を見せていたということなのか(経営権といった権利、つまり目に見えないものに価値をつけるところも共通している)。
生産性を重視するべく創始者であるマクドナルド兄弟のアイデアを片っ端からアレンジ(という名の破棄)を進めたレイだが、マクドナルドという名前とゴールデンアーチだけは残し続けていた。ここに宗教的な意味づけを察した時、私はとっさにパートリッジ・ファミリー・テンプル(pft!)のことも思い出した。正しく言えば、pft!を知った瞬間から、マクドナルド・コーポレーションとそれは「つがい」の関係にあるのではないか(pft!については自誌FEECOでメンバーの一人、ウェイル・ソング・パートリッジに取材しているのでそちらを参照のこと)という問いが生まれていた。断言できないのは、結局自分がキリスト教圏外、それどころか宗教へのリアリティがない国で育った人間だからだ。

実感しにくい認識の壁は置いておくとして、『ザ・ファウンダー』が確認させてくれたものはビジネスの残酷さや起業家への軽蔑といったステレオタイプな教訓ではなかった。それはゴールデンアーチの下で届けられる安価で暖かいコーヒー(そして空調の効いた部屋と座席)の尊さだった。自分のように洗礼のようなものを受けてしまった人間にできることは何なのか。

今後もスターバックスは入らない。だが、マクドナルドは(極力バーガー類を避けながら)利用し続けることだろう。

(20.2/11)