手っ取り早く言うならグローバリズムへの加担を微力ながらも避けたいという気持ちから、その筆頭であるスターバックスの利用は極力控えている。(高いという理由も大きい)。そんな自分でも、スターバックスと並んで資本主義のアイコンとされるマクドナルドにも同じ態度で接しているかというと、そうではない。それどころかマクドナルドには日々感謝しているほどだ。経済的にもっとも困っていた時期、野たれ死を免れたのは間違いなく同ブランドの多摩ニュータウン通り店があったからこそだ。すぐ近くのマンションに住んでいた時期は、ほぼ毎日通っていたと思う。周囲に乱立する大家と同じ姓名を看板に掲げる高級そうな飲食店(それも一軒や二軒ではない)への憎しみを燃やしながら・・・。 やっと映画の話である。『ザ・ファウンダー』は白人男性レイ・クロックが(何度目かのビジネスである)ミルクシェイク用ミキサーの不振に悩むところから始まる。「鶏が先か、卵が先か」というフレーズにはじまり、全く同じ文句を繰り返すセールストークが無視され続け落胆するレイのもとに、珍しくミキサーの注文が飛び込んでくる。それも8台、間違いかと思うほどの量だ。依頼主はカリフォルニア州の端で飲食店を営むマクドナルド兄弟だった。その店の名も彼らの姓を冠したマクドナルド。店内ではなく車の中やその辺のベンチで食事することを前提にしたドライブスルーシステムと、各工程別に分けられた調理セクションのデザインに感嘆したレイは、マクドナルドの全米チェーン展開を思いつく。兄弟が持つ一号店の経営に口を出さないことを条件に、レイは共同経営者として奔走する。法さえ味方につければ無能も発明者になれると気付いたレイは、経営権という概念を持ち出し、アイデアを生み出した兄弟から経営権を奪うことで、マクドナルドを「マクドナルド・コーポレーション」として今日まで続く世界最大規模のファーストフード・チェーンに進化させる。兄弟には年1パーセントの売り上げが払われる約束だったが、それは紳士協定、いわゆる口約束であり、実際にそれが払われることはなかった。ラストシーンでレイは鏡の前の自分へ、まるでメディアの取材に答えるかのように自信を口にする。それが何よりの原動力になっていることは言うまでもない。 あくまで企業家としてのレイを描いただけなので、マクドナルドを通したグローバリゼーションの批判といった観点は含まれていない。人を「使う側」の目線で描かれてはいるが、逆説的に資本主義下の抑圧、経営者と労働者との不平等性が強調されているかといえば、そうでない。だからこそ、監督たちが捨てなかったメッセージに意識が向かう。それは宗教としてのマクドナルドという見解だ。 実感しにくい認識の壁は置いておくとして、『ザ・ファウンダー』が確認させてくれたものはビジネスの残酷さや起業家への軽蔑といったステレオタイプな教訓ではなかった。それはゴールデンアーチの下で届けられる安価で暖かいコーヒー(そして空調の効いた部屋と座席)の尊さだった。自分のように洗礼のようなものを受けてしまった人間にできることは何なのか。 今後もスターバックスは入らない。だが、マクドナルドは(極力バーガー類を避けながら)利用し続けることだろう。 (20.2/11) |
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