私的・文章を書く上での注意点 2022 ver

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2年前にこんな文章を書いていたが、今読み返してみたら他人の文章のようで苦もなく読めた。他はどれだけ時が経っても再読する気にならないのだが...。
特に大きな進歩も退行もなく、文章の悩みは依然として変わらない。細かく指定すればいくらでも出てくるのだが、目下いちばんは「書いておきながら自分で面白いと思えないこと」である。卑下の意ではなく(ないわけではない)、単純に判断できない。どれだけ粗を見つけ出しては修正したとしても変わらないどころか悪化する場合さえあるため、終わりがない。
前に書いた文章では、資料性を第一に書いているために「面白さ」といったパラメータは度外視だと言っている。アーカイヴという目標をふまえれば事実であるが、他方で「つまらなくても仕方がない」といった免罪符にしているのも否定できない。先回りして保険をかけたり、後になってあれこれフォローするよりは、読んだ人の知識想像力寛容さetc.に頼った方がいろいろな意味で建設的である。客観的な情報の整理に特化していようが主観にまみれていようが、テキストの価値は読む者が決める。よけいな気遣いは無用なのだ。
 頭ではわかっている。しかし、実践が伴わない。とにかく粗を探してしまう習性は自分で抑えることができず、過去を振り返っても嫌な思いばかりしてしまう。このホームページに上げているものなどは後からいくらでも加筆修正できるのだが、仕事の原稿はそうもいかない。恥をかくのも仕事に含まれていると承知しているが、こればっかりは慣れそうにない。
以下に2点、「アーカイヴ目的でない」自分の文章(レヴュー・日記など)に散見できる粗を挙げた。注意点と銘打ちながら、ただの個人的な悩みの吐露でしかないが、ここはそういうことを書いても許される場ということで。

1・冗長さ

ここまで書いてきた文章にも兆候が出ているもの。基本的に無駄な修飾をしがちである。これを痛感する時は、自分が日本語で書いた文章を英文に変換する時である。たとえば「〇〇なAと、B」という文章を翻訳する際、字並び通りにやると、「修飾されているAとそうでないB」の並列となる。これは英文法としては美しくないとよく言われる。そのおかげで日本語文にも同じ視線を向けるようになった。いや、日本語の時点でこれはよろしくない書き方なのだろうか?よくわからない。
ペダンチックな言葉選びに頼るのも冗長さに繋がりがちだ。ついつい、語の「強さ」のようなパラメータに頼ってしまう時もある。多義的な意味を持つ語とそれが中心になっている文に頼り、目を通す読者に意を汲んでもらおうという怠惰な心の表れである。
修辞に富むことと文章が余剰であることは大きく違う。具体的な解決策はわからないままだが、ヒントは「削る」ことにあると思っている。削る、とは無駄な語や表現を省くのはもちろん、文章を届けたい層を絞ることも意味している。沢月耀さんが99年にアップした「レビュアーの自覚~「主観的」という前置きのもとに」という文章を今見返すと、ますますこの思いが強くなる。以下の部分はSNS時代のことを語っているかのようだ。

"「主観的な」レビューは、書き手の作った<物語>を根拠として作品に与えた「評価」を広く他者に伝えるのではなく、同じような<物語>を作り、同じような「評価」をする人を探し当て、ひとつところに集めるというはたらきを持っているのかも知れない。" 

同属にのみ伝わる暗号を放ち、目的が人と繋がることに置き換わってしまうことに対する不安。いつしか自分の居場所から大きくはみ出し、何をするにもやっていて楽しくないスパイラルに陥ってしまうこと。たとえば「みんなが持っているから」という理由で特に必要もない荷物をかかえ、ずるずると引きずる。または「みんながいるから」という理由で、そこを指標にする。こうした潮目を読む仕草が冗長さの源なんだろう、きっと。

2・人目の意識

結局は自分が求められている「仕事」(この言葉が指すものはbusinessまたはworkという語に値するものであり、それぞれに微妙な違いがある)に見合った外面と、内実としての文章のバランスが不安定なのだろう。それが無数の小細工-複雑な語を使っていたり、字数が多い=大は小をかねる的発想といったもの-でこの場をごまかそうという下心を生む。開き直って「わたしの文章はこうなんです」という圧が行間・字間から湧き出ている人は尊敬する。自分のやっていることと、それを見ている相手のことがはっきりと想像できて、実感を伴っているからだ。
SNS、というかTwitterは容易に人と表面上とはいえ繋がることができるし、相乗的に文章が拡散されることもままある。しかし、それに慣れると「誰が見てるかわからないので出過ぎたマネはしないでおこう」というストッパーを自分にかけてしまいがちだ。出過ぎたマネとは、物議を醸したり誤解を招くような表現を避ける、タイムライン上にいる誰かの機嫌を損なわないようにする、究極的には「持論を述べること」そのものである。明らかに自分より優れた人が同じ空間にいる上に、こういった人間関係を並列して眺められる環境。個々人に面識がなくても同じトピックについて言及しているという括りによって見られている我々は、今この瞬間でも、見ている誰かによってピラミッドの中に押し込まれている。被害妄想めいた考え方かもしれないが、自分が現実に萎縮してしまっている以上は確かな現象なのだ。そのピラミッドを作っているのは自分自身だったとしても。

自主製作をやり始めた頃、私はTwitterの類を使っていなかったし、作ったモノの告知だってしていなかった。誰の気にも留まっていなかったし、留まろうともしていなかった。炉端に手紙を置いておく感覚で、ホームページに文章やら何やらアップしていたのだ。いつからか、まずはTwtterでのアナウンスが第一で、こういうホームページやnote、ブログといった場のリンク先を同サービスにて共有しなければ見てもらえないようになった。宣伝をする上でしぶしぶ従ってはいるが、正直なところ釈然としないのである(しかも大きな効果があるかと言われたら怪しい)。昔と違って、みなが同じ場所に常駐するようになってしまった今、「好きなように書いている」と「見てもらわなければ意味がない」のバランスをとることがかなり難しくなった。このままならなさはあくまで「売るため」の課題であるのに、どういうわけか文章そのものの在り方にも関わってくる。


戻ルァ

(22. 5/21)