私的・文章を書く上での心がけ

私的・文章を書く上での心がけ[アーカイヴ篇]

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自分で一度書き終えた(公開した)文章を見直すことはかなり少ない。見直したとしても、意図的に目を滑らせてしまうというか、とにかく現実として直視しようとしないのだから、まともに読んでいるとは言えない。全削除しないだけ過去よりマシとはいえ、このサイトにアップしている文章は近年書いているような文章とかけ離れているので一層辛い。
例外は資料として再利用する時である。その影響からか、自分の文章には資料性のみを求めるようになり、修辞的なクオリティを気にかけなくなってきた。
今回はここ数年になって書くようになった資料的文章の精度をいかにして高め(ようとし)ているか、備忘録的に書き出してみた。主に書くものが歴史的事実の収拾・整理を目的としているため、以下はそのための方法論である。なお、論文と呼ばれるような形式で発表しているわけでもなく、「一記事」の範疇としてご理解いただきたい。

1.目的を忘れないようにする
何よりも参考にしている本が1981年に出版された木下是雄『理科系の作文技術』だ。次の抜粋部分には、このページに書いてあることのほぼすべてが集約されている。

"文章の死命を制するのは、文章の構成–––何がどんな順序で書いてあるか、その並べ方が論理の流れに乗っているか、各部分がきちんと連結されているか–––なのである。文のうまさ(語句の選び方、口調のよさ)などは、理科系の仕事の文書の読者にとっては、二の次、三の次のことに過ぎない"(同著51Pより)

自分の筆業は主に芸術を扱ったものである。批評とまではいかないが、一つの文化的ことがらを掘り下げ、読み解き、内実的に翻訳するといえる。よって(一般的には)文のうまさ、修辞的なそれである方が「受ける」傾向にあるだろう。しかし、それは未だ資料化されていないような歴史をすくい上げる仕事においては+αの部分にすぎない。この目的を果たすためにも、文章の骨子としては理科系の文書的なものを目指すようにしている。ゴールは無駄な言葉と曖昧な予測を出来る限り削いで、事実の集合にわずかな主観を添えて一つの資料として「完結」させることだ。そこから先のこと、またはそれ以外の評価(文章的な質など)は読者に委ねられる。当たり前だが、すべてはその文が書き手から放たれてから明らかになるものだ。「置いとくから勝手に読んどいてくれ」くらいの勢いでいいとさえ思っている(後述するが、ここが自分と自主製作の相性の良さでもある)。
答えが無数にある「自説」と違って、情報の塊を作るという目的がある分、作業の方向性が決めやすい。それに目的をハッキリさせておくことは書き手と読者、両方にとって重要だ。『理科系の作文技術』では文章の主題を要約した文を「目標規定文」と呼んでいるが、これを定めておくと読者は結論をイメージしたまま内容を読み進められる。書き手としても、文章が迷走してしまった時に方向を定める助けとなるために楽だ。


2.事実9:論1
アーカイヴ性の強い我文だけに、情報を羅列しているだけだと言われても仕方のない時がある。そこには「批評」や「レヴュー」に求められるような、書き手本人の視点や独自の結論が少ないから、読み物としては退屈になってしまうわけである。オリジナルの視点があるということは、論自体の強度などを抜きにして尊い。自分の文章は大学院だとか学術調査のための論文という出自でもないので、多少は読み物としての価値を付随しようとするのだが、これをやりすぎると「自説の展開」と「資料化」のバランスをとるのが難しくなる。無理をして独自の私観とやらを打ち出そうとしてもスベるだけなので、徹底してデータに特化した方がよいという答えにたどり着いてしまうのが常だ。
自分が私観を持ち出すのは、事実と事実、言い換えれば情報と情報の「つなぎ」が必要になった時である。文章として確立させるためのパーツといえばいいか。違うトピックに移行するためのもの、多くなりすぎた情報をいったん整理する役割を果たすもの、そして結論の類など、その機能は色々だ。ここに書き手の私観、情報を集める際の意図を見出すことができることも多いため、材料として寄せ集められた事実よりもこの「つなぎ」部分の方が重要だという人もいるだろう。批評やレヴューはそれが顕著に思う。
情報から情報へ渡る際の息継ぎともいえるこの方法をとっている以上、9:1という割合はどんな文章を書いたとしてもほぼ変わらない印象だ。仮に配分がおかしいと感じた時は、「論」の箇所を削ることがほとんどである。
極端な話、削られた「論」の部分は、いつか他の誰かが別の場所で補ってくれるだろうと思っている。無意味に主語がデカイ総論で話を結びたくなる気持ちもゼロではないが、本来の目的を忘れてはならない。自分は集合知の一部というか、共有の知的財産を築く仕事に従事しているという気持ちが大事だ。繰り返すが、これはあくまで情報をまとめる「アーカイヴ」においての話である。

2'.メモ9:修辞1
1.で書いていることにも重なるが、これは文の見てくれの問題である。事実が淡々と羅列されている文章を読んで面白いと思うかは、読み手の目的に左右される。新聞の大部分は事実を客観的に伝えているだけであり、それ以外はあまり求められない。コラムや書評は「読み物」としての文章が常なので、これには当たらない。あくまで情報を(必要とあらば要約し)整理するのが自分の作法である。
事実を伝える際も回りくどい言い方をする必要はないが、究極的にはターゲットとなる読者層を意識せねばならない。ほんの少しくらいは読者を飽きさせない工夫、あえてざっくりというが「詩的」な書き方(比喩の使用など)にも取り組まねばならない。もっとも工夫は工夫でしかないのだが・・・。「詩的じゃねえ」という指摘には「アーカイヴが目的ですから」で逃げられるのだが、「アーカイヴとして頼りねえ」という嘆きに対しては「詩的に読んでください」とは返せないのは悩ましい。

4.自制
先に「無駄にデカイ主語」云々と書いた部分と重なるが、これはあくまで自分自身に課しているルールである。他人をどうこういう意図はないし、よその文章を楽しんで読んでいるからこそ導き出せたやり方だとすらいえる。私見だが、批評やレヴューは書き手が「書きたいもの」を介して「書きたいこと」と「書きたい自分」を伝えるという前提がある。主題にフォーカスするための道筋を作ると同時に、書き手自身がもう一つの主題となり、読者を自らへと誘導する。自分はあくまで必要に応じた場所でのみ私見を持ち出すのだが、性格的にあらゆる点で自信を抱きにくいため、この作業が一番難しいというか、まあ勇気がいる。人に伝えるために書いてはいるが、人と繋がるために書いてはいないため、書き手を前に出そうという意識がどうしても薄いままなのである。これが上の「修辞1」というバランスを生む理由にもなっているのは書くまでもない。文に書き手そのものが反映されるとすれば、自分の場合は「書き手が見えない」ことが何よりのアイデンティティとなっているだろう。本人よりも書かれている事実の方が大切なのだ。とはいえ、文章の価値を判断するのは読者なので、こちらが何を意図しようが及ばない領域というものがある。よって、これは自分にかけるまじないのようなものだ。

5.賞味期限
当然ながらアーカイヴや補完にも質というものがある。その目的が果たされていなければ、それは質が低いものなのだ。質を客観的に左右するのは第一にデータの量と鮮度であろう。過去に出たものよりも更新されているか否か、比較しやすいために問題点を振り返ることには(よくも悪くも)苦労しない。
「代替の利きにくさ」というのも目的になり得るし、書く上での指標にもなる。それはそのまま文章の賞味期限、耐久性にも繋がるからだ。たとえば、自分の仕事はニッチなジャンルを扱うこともあって、一定の需要を実感している。書き手の着眼点・文の巧さ云々を抜きにしても、過去に例の少ない仕事ということに価値が置けるわけである。「出すことに意義がある」は、ある程度の場数を踏んでからは言い訳としての度合いが強くなるけれど、忘れてはいけないことだとも心に決めている。時にはこれぐらいしか気持ちを前向きにするものがないのだから...。
理科系の文書は研究を終えてから書き始めるというが、自分の場合もこれに当てはまる。集めた情報を仮説という枠組みで囲い込む。その囲い方を根拠あるものにするべく再び資料を集め、(集めている途中に主題が変わることもあるが)そこから文章を作っていくのだ。作業中に主題の案が追加で浮かぶこともあるが、慣れてくると、その賞味期限が遠いか近いか、うっすらとわかるようになってくる。大抵は欲張り、浮気、思い過ごしである。
書いた文章が評価される日は書き手が死んだ後になることだってあり得るが、あらゆる文章・言葉がインスタントに消費されること(それ自体を否定しているわけではない)に馴染めないし対応できない自分にとっては、ここが拠り所にして文章を書くことの心地良さでもある。ZINEや個人サイトが好きな理由はここと重なるからかもしれない。まったく反応がないというのも困りものだが。


アーカイヴ目的以外の文章も書くことだってあるため、以上が自分の文章観の全容ではない。それに、優れたレヴューや批評が小説になるように、文章が本来の目的を脱することは往々にしてあり得ることだ。振り返ってみれば自分の文章にだってそういう瞬間があるかもしれないし、ないかもしれない。
たくさん書くことと同じくらい、他人の良き文章を読むべきなのだが、歳をとると中々難しくなってくるのが実情である。体力の問題なのか内なるコンプレックスに気付くことを恐れているのか、なんにせよ難儀な30代が始まってしまった。

(20.7/10)

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