天神さやか『誰ひとり欠けることなくそろったならみんなで明日の国へゆく展』

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ライヴなんてもう1年に1度いくか行かないかになっている昨今だが、今年初の生演奏は2月と早かった。
 サヨ族の天神さやかさんの展示『誰ひとり欠けることなくそろったならみんなで明日の国へゆく展』。初めて野田という街にいった。中央線沿いに似ている雰囲気があり、どことなく懐かしい。会場のギャラリー兼バーであるマガユラはビルの2階と3階を使用しており、存外広い。こういう場所に行くのも本当に久しぶりだった。
天神さんの絵やお面をじっくり眺める時間こそとれなかったが、無作為であることがわかっただけでも充分に嬉しいものがあった。ラショウさんのお面にも似ているし、身体表現においても二人(と宮岡さん)は相性がいいと思う。
グノーシスめいた個展のタイトルが示すように、圧倒的に一人の世界があり、そこに「みんな」が入っていける広大さがある。圧倒的なまでに分け隔てられて違う存在だからこそ、生きているものは等しい存在である。ここ数年になって考え続けていることの答えではなく、問いそのものが部分的に表象となっていた空間だった。私もアクリルで絵を描いてみることで、もっと自分に肉迫できるだろう。

演奏はサヨ族として天神さんと宮岡さんの二人が、手元にあるでんでん、ベル、笛、エレキ、ハーディガーディ、そしてルーパーなどのエフェクターを使った即興的な内容になった。即興「的」と書いたのは、明らかに二人のバイオリズム的な決まりごとが演奏に反映されていたからである。それはイディオムといった枠組みとまではいかないかもしれないが、魚が障害物を難なく避けて泳ぐような「当然」が演奏から見受けられたのだった。ビルの窓から眺められるJR線の電車の音や、階下の寿司屋が必死に売りつける恵方巻の喧伝を拒むことなく、音響として変えてしまうマジックが、サヨ族は宮岡さんの分水嶺といったバンドよりも顕著であった・・・ま、分水嶺は生で見たことはまだないのだけど。ルーパーを使った音は「とても茶」としての演奏に近いものがあると終演後にうかがった。また聴き返してみよう、、。

当日はその他の演奏者が3名。特にポニョさんにはすさまじい衝撃を受けた。ハッキリ言って今年これを超える生演奏があるのかという域だった。混沌の中に叙情というかメロディが生きている奇跡のような塩梅があり、他者でいえば山本精一さんも作り出している、てらいなしの孤独が克明に動いて歌っていた。宮岡さんが昨年京都で向井千惠さんと共演した時にも感じたが、生の感情をぶつけられると一時的に目を背けたくなり、やがて内にあるもの全部を解き放ちたくなる。この感情は瞬間的で文書におこすだけでも損なわれるものであり、ましてやSNSなんぞで共有なぞできるわけがない。「ブローティガンってどんな人、タイプライターってどんな音」。答えることなんて私にはとてもできないとして、これ以上に心を揺さぶる問いに今年は出会えるだろうか。

野田から京橋で降りて、京阪に乗り換え。金曜日の夜は自分と違う種の人間ばかりであった。


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(23.2/4)