マクルーハン、竹田賢一大正琴独弾 at アトリエ第Q藝術

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まともに読んだことのないマーシャル・マクルーハン『メディア論』を読み出し、過去の修辞を持って新しい(とみなされる)ものを受け入れることが、今よりもみずみずしかった時代を想像する日々。マクルーハンの自説「メディア=意識の拡張」は、現代においては増大しすぎて再びゼロに戻った、またはマリオの2周目的なルーチンに入った認識に思えた。みなが言語化・体系化しているわけではないが、経験として、前提として知っていることは、まだ誰も知らない(認識できていない)ともいえる。インターネットや携帯電話が未来の産物だと思われていた時代の感覚を、どうやって想像していいかさえも自分はわからない。だから、いかにして自分の認識とマクルーハンの理論が、イコール自分と現実が繋がっているかを考えている。文章でもなんでも、すべてはその道程に過ぎない。

世界中に意識を延ばし、仮初めといえどそこと繋がる。グローバルヴィレッジと呼ばれる図式は、地球という全体、人類という家族を単一化する未来の想像で、この楽観的な考え方が60年代という感じだ。それぐらいに切迫した事実(大戦)があったし、マクルーハンの生前死後問わず起こり続けている。だからこそ「日常のもっともらしい体面を保つことができるのは、裏で必死にもがいているからだ」と、「われわれ自身の身体の拡張を、実際に外にあるもの、自分とは切り離されたもの、と見なすナルキッソスのような態度をとるかぎり、あらゆる技術の挑戦を受けては、バナナの皮に滑って転ぶのと同じことを繰り返すことになるであろう」といった、警句が今日では実感をもたらす。熱いメディア・冷たいメディアといった、マクルーハン独自の見解はまだメディアの発展が見込まれていた、その前提に基づく未来予想にすぎない。

こじんまりとしたアトリエ第Q藝術にて開かれた竹田賢一大正琴即興独弾は、針の穴より小さい活路を通してガザと繋がる機会だった。パレスチナの旗と同じ配色(のはず)コーデで座する竹田さんの演奏は、力が入りすぎて卓上の機材が二度も落ちた。だが二度目はタブレットがケーブルの上に落ちることで落下音が消え、オーディオインターフェースはド派手に落ちるも直立するという、おかしくも力強い様相であった。
世界各国で行われ、ネットを介してシェアされている抗議行動の音声をバックに、竹田さんの半生の4分の1が語られた。なかなか壮大な話かつ、リズムトラックが意図的に大きなボリュームなこともあって断片的にしか聞き取れないため、簡単に総括できない内容であった。とりあえず『日本占領革命』という本は読んでみたい。

生まれた瞬間に自分どころか土台となる世界そのものが、否定したい対象を自分と同じく構成する一要素になっていること、そしてそれに依存する形で世界が存続していることは釈然としないし、こうして字におこしているだけで(他人に読まれる前提で書いている時点で)、当たり前のことを居丈高に説いているせいかムズムズする。だが、結局行動を起こすにはそれだけで十分な理由に思えて、それくらいしかできないのではないかと楽になれる部分もある。「不屈の民」が今も世界のあちこちで歌われ、読まれ、聞かれているという事実が、こうして記されることをいちいち査問しようなどと思わない。


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(24. 7/22)