スピードに追い付けない愚者

ツイート

最近は悩みや愚痴しか更新していないが、それはそういうことなのだから仕方ない。相変わらず経済的に行き詰ってるうえ、いよいよ親の介護までしなくちゃならなくなったのだから、いよいよやり方を抜本的に変えねばならない。10数年身の丈をわきまえてこないまま好き放題していたが、以降はちゃんとできる範囲で欲張ろうと思う。それが当たり前な気もするが・・・。とにかく、何をしようが過去は嘘にならない。それはいいことでもあるし辛いことでもある。
 今はもっぱら『ビデ再』に取りかかっているので、音楽の話が最近は少なめになっている。秋以降は増えていくので、もう少し待っていただきたい。調べれば調べるほど、整理が大変な分野なので、下手な切り売りはしたくないのである。
音楽については直近の企画に限らず、自主制作の規模でやるべきか、それとも発展を見込んで版元さまへ提案するかを毎回考えるのだが、決まって商業的には厳しいという結論に至る。実際に持ち込んでみても先方からすれば難しいネタばかりで、時間をおいて自分でも見直してみたら確かにそうなのである。だったら自分で出すほかない。
自分で刷れるのはせいぜい200部程度で、それもすぐにはけるかといったらそうでない。最初の印刷費をペイしたら、あとはそれっきりというのが実情。500も1000も売れるには、人々の手に渡るような努力をちゃんとしているのだろうな。私が書くようなテーマはハイが決まっているので、初動で動いた数が最後ともいえる。そこからの動向は自分でコントロールできるようなものではない。
 自分が声を出さずとも、よいものを作っていれば受け手が勝手に広めてくれると未だに考えてしまっている。実際にそうした経験があり、ニッチな分野であればすぐに結果が出るのだろう、と思わせた。よくも悪くもこれが尾を引いている。外へと広めようとしても、もともと必要としない人間や興味のない人間に向けているだけなので効き目は薄い。万人向けのものではないし、それを作っているつもりもないのだから。数字が動かないということは、今の段階(時代?)では作品の質または世間での受容がその程度のものである、という着地。
広告を打つ=大勢の内側で周囲にアピールするという試みの難しさがこの考え方に拍車をかける。徒競走に参加するようなもので、他人の仕事と比べられるような勇気は私にはない。それがモチベーションになって良い仕事をしようという考えも理屈としては理解できるのだが。アピールする場がtwitterに絞られているのも本当に不愉快だ。なぜ同じ空間にいて、同じことをしなければならないのか。

冒頭に「過去は嘘にならない」と書いたが、ここにかかわってくる。昔から自分のことを隠しながら(と書くと語弊があるが、単に何を考えているか表明してきてないだけ)生きてきた。下手に自分を出したら「あの時のアイツだろ」と言われる不安が強く、それは歳を重ねるたびに激しくなる。10年前のわがド貧困時代を知っている人間は今の私を見て、「進歩がない」あるいは「昔はああだったくせに」と思っていそうで困る。変化するのは当たり前だし、実際にこんな指摘をするほど暇で狭量な人はほぼいないのだが、なぜだかそう考えられない自分が内面に生きている。10数年以上前にさかのぼったって同じかもしれない。これは単に身近な喜びを見落としているだけなのか?twitterという同じサービスを使い続けているからかもしれない。
 いままで本名であれこれ書いておいて何を言っているんだという話だが、本当は今すぐにでも名前を改めたいくらいである。過去をリセットして別の世界の住人として、転校生として、エイリアンとして生きていきたいと強く思う。海外に住めたらいいと漠然と考えていたのもそういう動機からだったが、それも非現実的になった。それにいかに環境を変えようと、やっていることが同じであれば変わりはない。どこに住もうが日本語で思考し、日本語圏を相手にしている時点で日本人である。それが日に日に耐え難くなってきた。
 自意識過剰の一言で済ませられたらどれだけ幸せか。恥じるようなことだけしてきたわけではないが、記憶されていること自体が往々にしてむずがゆく不愉快だ。記憶されていて欲しい人間にのみ覚えてもらいたい。わがままは承知だが、人と(表面的な)繋がりを持つことを世間が慣れすぎているのは事実だろう。こんなことになるとは思わなかった。

いつもと同じ戯言だが、逃げられる気がしない。会う人会う人に尋ねてみたいぐらいです。過去に何をしていたかは、現在をジャッジする上で判断材料となっていくだろう。矛盾はありますか、嘘はついていませんかetc...勘弁してほしい。じゃあ、もっと早くにいろいろやって宇今ごろに燃え尽きておくべきだったか?そんな簡単な話ではありません。


戻る

(23.7/11)