世界観という言葉は本来、考え方や価値観を指すものであり、「外の世界をいかに認識しているか」ともいえる。ところが、自らのそれを自らの言葉で言語化するのは存外難しい。私なんぞは他人のものを代用してばかりなのだが、数だけは多いため、要約するとどうなのよと問われると、結局は自分の言葉が必要になってくる。面倒くさくなった結果、行動にそれが表れるだろうということで保留しているのであった。行動は言葉よりも雄弁であることは確かなのだが、どうにも格好がつかない。 『TO』はユーゴスラヴィア紛争をモデルにした戦記モノのゲームである。身体的特徴と使用言語が同じである異民族間(ウォルスタ、ガルガスタン、バクラム)の紛争下を生きる姉弟を中心にしたストーリーで、プレイヤーは弟デニムを操作し、決断したり行動を傍観したりする。プレイヤーの選択次第で紛争内のシナリオが大きく変わり、登場人物たちの運命も劇的に変わる。歴史にifがないからこそ、それがあればと想像させるところにフィクションの力があるのだが、『TO』は自分の決断が一個人の行動の因果を飛び越えた変化へと発展していく様を如実に見せてくれる。そこにはオールorナッシングな仮定を払いのけ、釈然としない理想と現実の斑が世界そのものだという認識がある。民族融和を説くデニムが姉に国の統治を任せて、自身は身を隠しながら外へと去っていくエンディングは皮肉なようでいて、境界を破壊する異邦人的な描かれ方として最適とも思える。たった一つの自由とはシナリオの分岐点でたびたび現れる選択肢に象徴される、「そんなことはできない」と言い続けることだけなのではないか。 作家・色川武大は昭和一桁世代であり、中学生の時に戦争を経験している。馴染みの喫茶店は爆弾で吹き飛ばされ、戦争が終わるとそれまで常識とされてきたものがフェードアウトしていく過程にアウトローとして生き始める。やがて麻雀小説でヒットを収め、一文化人の仲間入りを果たしながら、かつての日本の残滓として世に留まり続けた。 大きな問題は解決できないからこそ大きく、絶えない。「こうすればいい」などという安直なロジックで平地の乱は収まらないし、そんなものならばとっくに人類は戦争をやめている。合理を求めすぎると、やがて可能と不可能の分別を生み、果てに妥協を強制するようになる。最低限の選択をするしかないという答えはその通りだが、所詮は結果論であり、最初から目指すのもおかしな話に思える。少なくとも「そんなことはできない」という意思なき行為には納得できないし、自分はここでしか他人と連帯出来ない気さえしてしまう。民族融和や戦争反対という壮大なメッセージは、不可能ゆえに真実味を放っている気がしてならない。 (23.2/28) |
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