改めて執筆・研究についての自己紹介が必要だと思い、冊子にしたためて限定的に配っている。ウェブ上に内容をアップしても悪いことはないが、おおっぴろげにするには少し説明が足りないところもあるし、協賛のお願いまで一緒にしてあるものだから、究極的には金目当てだろうとなじられそうな気もする。私のようにターゲットの絶対数が少ない人間は、いくら告知しようとも外へと広がりにくく、同じ内容を既存の客に何度も見せつけるような形になってしまう。スパムを延々と垂れ流すアカウントのように認識されるのは心苦しい。こんな風に半端にまごつくところが不格好で、同時に自分らしいと思う。 自分らしくいることが破滅へ向かっていくのだなと日々感じる。保留というか拒否というか、小学生時分からなんとなく実践してきた姿勢が、ある意味で花開いているのが現在の暮らしなのかもしれない。流動的ともいえるし単に怠惰なだけな気もしてくる。多感な20代前半は飢えるなら飢えるで仕方なし、インフラが止められてやっと焦り出すような暮らしだったので、そこでも大きく感性が痺れた。痺れたままで他人と付き合うのも難しく、何をするにしろ長続きしない。いつまで経っても貧困時代と取りこぼしたチャンスをスタートラインにしているから、現在が何をしてもオマケのようなものだと感じる瞬間が多々ある。世の中のオマケたる芸術を忘れられないのは、これと無関係ではない。 大切なのはそれが余剰であることで、主である生活というか人生がその根っこにあることを忘れてはならない。余剰はどこまでいっても余剰で、それを続けられているのはどんな人でも単に運がよかっただけだ。正確にいうなら、その運に対して動いてみせたから今日がある。誰の生き方を見ても自分を見てしまっているところはあり、それを自覚できるようになったのは最近のことである。したところで、特に何か動いているかどうかは、自分ではわからない。 自己決定権とか選択の自由というものを私はあまり信じていない。運の影響というものがこの世界にはありすぎて、自分で選んだように見えて選ばされているだけに過ぎない場面が多すぎるからである。しかし、内心では強く自己決定や自由意志にこだわっているからこそ、現実とのギャップに屈し無気力になっている。幼い頃にテストでいい点をとったとか、自分の意志で進学や就職を成功させたとか、何かしらに取り組んで結実させる経験が欠けているせいかもしれない。そんな人間でも今日まで生きてこれたのも、当然運のおかげである。 そこらを歩いている人間を二人並べて平等だと言えないように、差というものはあらゆるものの間に成立する。根本的に違うからこそそれぞれの人間は平等であるし、ゆえに近いもの同士で集まる。集まる人たちは互いに選択しているのか動物的な習性なのかは判断しかねるが、私はこの法則めいたものから逃げたいという気持ちが強い。それが発作としての無気力さを出すのではないか。とにかく、人は鳥かごまたはピラミッドの中で生きているようなものだ。たいていの人は自分よりも劣っている人間に敏感だが、それがあるからこそ自分の立ち位置を守っていられるとも思うし、下に対して寛容になれる。去年の事務職場では、頼りない同僚または社員をいびるベテランのパートたちがいたけれど、その待遇の不平等に憤りながらも満たされているようだった。この人たちはここでバランスをとっているのだなと思えた。フランシス・ベーコンが「苦労のない人生は植物と同じ」といっていたが、そんな声が聞こえてくる。植物みたいでもいいと思わないでもないが。 何がきっかけで人の背中を悪い方向へ押すかわからないし、こうした考え方をSNSではシェアできない。しかし、ここで書いたって、何より書いた本人に返ってくるので不毛ではある。自分を卑下して得られるものなどはないし、ただ生きているだけでもう充分だと思える。だからこそ、そこから這い上がろうとか下から上へと向かっていこうとも、正直思わない。するとしたら、それは外からの力がない限りは起き得ないだろう。
(23.4/26) |
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