ようやっと暖かくなってきたので、一日の活動時間が伸びてきた。自覚はないのだが、寒いと鬱のケが強くなるようで、年明けから3カ月弱、明らかにパフォーマンスの悪い時期を過ごしていた。 2月は雑誌を作ったり、東京へ行ったりしてエネルギー(経済的なものも指す)を使い果たした感がある。確定申告と奨学金の返還猶予の申請が重なったこともあり、ここ数年では一番のバッド状態だったかもしれない。こうなると日常的に避けているものがいざ視界に飛び込んできた時のダメージは計り知れない。具体的に言えばそれは日常そのものなので、テレビとそれを真に受ける愚者は私をなじり、まとめサイト経由で得た話題を振ってくる不届き者は踏み絵を差し出してくるそれにガマンならなくなってきたのである。少なくとも、バッドな時期は。 上に書いた蛮行が何よりも醜いのは当然だが、こうした極端な例は距離をとることで対策出来るため、実は本丸ではない。私を一番悩ましてくれるのは、その遮断したい(というかしている)領域と、私が逃げ込んでいる領域の間にいる人々である。情けないことだが、私も上で述べた踏み絵を差し出す不届き者らと一緒で、敵と味方という二項に支配されていることは認めざるを得ないだろう。 人々が明らかに衝突を避けている姿にどうして違和感を覚えるのだろう。私も同じ立場だったら、きっとボカして話すだろうし、何より発信すらしないだろうに。もしかしたら仲たがいしている様を傍観していたいだけなのかも、という下衆な欲求の存在に気付いて自己嫌悪に陥ってしまう。自分は『シムシティ』などのゲームの延長で人の繋がりを見ているような冷淡さも併せ持っているのだ、と。その一方で、こうした人の思考の斑な部分に足を踏み入れること自体に強く惹きつけられる。その上手くいかない、アンバランス、アンビバレンツな構図にこそ、人の世なり、と浅はかなまとめで留まることにも飽き足らず。 悩む例はたくさんある。官邸前や国会議事堂前で「国民なめるな」というコール(日本国籍を持っていない人にはどう聞こえるとお思いか)、投票に行くことを喚起するイラストで女子高生のポスターを採用したことに批判しつつ、それを描いた(仕事を請けた)作家にはお咎めなし、西側発のグローバリズムの批判だけしてプーチンとアサドは黙認・・・一人では抱えきれないテーマだけに、全てに言及するだなんて到底不可能だ。ましてや、対象が多ければ多い程矛盾は表れるものである。パラドックスは不自然なものではないと、潔く認める人の方が私には魅力的に感じる。 (18.3/26) |
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