よく言えばStanding in two circles SNSと告げ口と

根暗

ようやっと暖かくなってきたので、一日の活動時間が伸びてきた。自覚はないのだが、寒いと鬱のケが強くなるようで、年明けから3カ月弱、明らかにパフォーマンスの悪い時期を過ごしていた。
外に出るといっても、日光を浴びる、喫茶店で何かしら飲む(何もしない)、作業できる場所で仕事する、図書館へ行くの4つくらいなのだが、これさえ出来ていれば、残りは娯楽・嗜好品の範疇である。

2月は雑誌を作ったり、東京へ行ったりしてエネルギー(経済的なものも指す)を使い果たした感がある。確定申告と奨学金の返還猶予の申請が重なったこともあり、ここ数年では一番のバッド状態だったかもしれない。こうなると日常的に避けているものがいざ視界に飛び込んできた時のダメージは計り知れない。具体的に言えばそれは日常そのものなので、テレビとそれを真に受ける愚者は私をなじり、まとめサイト経由で得た話題を振ってくる不届き者は踏み絵を差し出してくるそれにガマンならなくなってきたのである。少なくとも、バッドな時期は。

上に書いた蛮行が何よりも醜いのは当然だが、こうした極端な例は距離をとることで対策出来るため、実は本丸ではない。私を一番悩ましてくれるのは、その遮断したい(というかしている)領域と、私が逃げ込んでいる領域の間にいる人々である。情けないことだが、私も上で述べた踏み絵を差し出す不届き者らと一緒で、敵と味方という二項に支配されていることは認めざるを得ないだろう。
例えば「Aさんがある映画を政治的・人道的な理由で制作元共々批判していた。Aさんの友人のBさんはAさんとは逆の意見で褒めちぎっていた。AさんはSNS上で映画の欠点をつらつらと書き、支持している層共々批判した。しかしBさん個人には何も言わない。Bさんもその状況を看過しつつ、褒めちぎり続ける」。こうした状況がもどかしくてたまらない時がある。類似したケースはここ5年で膨れ上がる一方であった。「見えないところで面と向かって批判してるかもしれない」、「人の感想にケチつける理由はない」といった見解もあるし、それらは全て正解ではなくても間違いではないだろう。しかし、私はそれでごまかし続けてきたからこそ、限界を感じて、悩んでいる。
上の映画のような例では言及自体をやめることが賢い手段だとされている(それはSNSにおける発信全てに言えるかもしれないが、それを言っては)。周りの友人たちが楽しんでいる所に冷や水をかけても仕方ない、というクレバーな対応であり、処世術でもある。おそらく、こうした術は傍から見ていると不思議に映るというか、釈然としないものなのだろう。「みな事情があり、SNSでは言えないこともある。これは私個人の意見で、近しい人間と相違するものであることも自覚しています」とあらかじめ宣言してくれれば、私も納得する。

人々が明らかに衝突を避けている姿にどうして違和感を覚えるのだろう。私も同じ立場だったら、きっとボカして話すだろうし、何より発信すらしないだろうに。もしかしたら仲たがいしている様を傍観していたいだけなのかも、という下衆な欲求の存在に気付いて自己嫌悪に陥ってしまう。自分は『シムシティ』などのゲームの延長で人の繋がりを見ているような冷淡さも併せ持っているのだ、と。その一方で、こうした人の思考の斑な部分に足を踏み入れること自体に強く惹きつけられる。その上手くいかない、アンバランス、アンビバレンツな構図にこそ、人の世なり、と浅はかなまとめで留まることにも飽き足らず。
タチが悪いのは、酒の席(もちろんごく一部の人にしか言いませんが)で、「あの人がああ言ってましたけど、どうですか?」とくだらない告げ口をしてしまう時が多々あることだ。矛盾した状況で人がどう整理をつけているのか、純粋に興味がある。それだけで済めば、どんなに良いか。

悩む例はたくさんある。官邸前や国会議事堂前で「国民なめるな」というコール(日本国籍を持っていない人にはどう聞こえるとお思いか)、投票に行くことを喚起するイラストで女子高生のポスターを採用したことに批判しつつ、それを描いた(仕事を請けた)作家にはお咎めなし、西側発のグローバリズムの批判だけしてプーチンとアサドは黙認・・・一人では抱えきれないテーマだけに、全てに言及するだなんて到底不可能だ。ましてや、対象が多ければ多い程矛盾は表れるものである。パラドックスは不自然なものではないと、潔く認める人の方が私には魅力的に感じる。
私のやっていることは抑圧的かつ重箱の隅をつつくような些事であり、不毛でしかないものなのだが、これに悩んでいるのは事実であり、私の近況そのものなのである。それは否定しようもない...。

(18.3/26)