なぜ料理に対して消極的なのか

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暑さのせいで食欲が湧かない。しかし、料理をしなくて済むからラッキーだという思いの方が強いので概ねハッピーである。野菜が高騰気味なので、ここ最近は朝昼兼用にシリアルとバナナ、夜は豆腐と野菜2種類くらいで適当に済ましている(ほとんどが生)。ここにアルコールがあれば、もう何を食べようがさして問題はない。料理するにしても具材をまとめて煮た・炒めた程度のものだから、どちらかといえば調理である。生では食べづらいものを食べやすくしているだけだ。そして、自分はこれでいいと思っている。 凝った料理を食べたければ、外食して、対価を払って自分より優れた人に作ってもらえばいい。お金がかかるので、そうそうできることではない。だが、贅沢とはそういうものだ。

いつから料理が嫌になったのだろう。たぶん、したくてもできない時期が続いたせいだ。食材を揃えたくとも経済的な理由で見送らざるを得ない日々を送るうちに、料理への意欲や興味が失せ、それが裏返った形で出てしまったのだ。とにかく、食べ物を口にできるだけで大ごとなのに、さらにその食べ方に凝ろうなんて贅沢だ・・・という逆恨み的な思考である。
一番酷かったのは23,4の頃で、まる1日何も口にしない日を2週間に一度は迎えていた。アルバイトの給料も家賃と光熱費でほぼ全部消えるため、必然的に食費を切り詰めないといけなくなる。たまに電気や水道を止められた時は公園で水を飲むくらいしかできないので、極力体力を使わないように寝転がる。外に出たときは駅前のモールを徘徊して、それとなく小銭が落ちていないか地面を見て歩く。飲まず食わずが続くと、まず足が打撲したような痛みに襲われ重くなる。水木しげるが「ひだる神」(山中で飢えに苛まれる現象)の絵を描いていたが、まさにあの絵の通りであった。

金欠時は倹約に励むかといわれるとそうではない。正確にいえば、判断力が失われるためにまともな金の使い方をしなくなる。金がない時ほど、飢えているときほど、(あまりに次元の低い)贅沢がしたくなる。数時間のミスタードーナツ(コーヒーとドーナツで400円くらいか)のために、その一日の食事代をすべて使いきってしまう。いつか金が入ったらアレを買うコレを買う、と無一文でスーパーの中を徘徊したことは一度や二度ではない。個人的な経験では、お菓子とインスタントコーヒー類(カフェオレの粉が入ってるスティックとか)への執着がすさまじくなり、大量に買い込みたくなる。もちろん買えたためしはない。
給料日を迎えても、食べ物と金のありがたみを反芻するより先に手が先に動いて、数日以内に無一文となる。何の目的もなく遠出して交通費だけで金を使い果たすこともあった。そういう時はたいてい町田のプリンス(もうありません)に籠城していたものだ。いつの間にか食事は贅沢なもので、食べられない日があっても不思議じゃないと考えるようになっていたと思う。飢えと貧困がアイデンティティのようなものになるといえばいいか。この期間は1年ほどで終わったが、それでも食費を切り詰めて1日二食にする日が続いた。もっとも、この時点で食事に対する意欲は失せてアルコールの量だけが増えていたため、金があったとしても毎日料理するようなことはしなかったと思う。
今では外食、酒の肴、お菓子への執着も薄れたが、たまに「ぶりかえす」時がある。ご馳走になる時や、バイキング形式の食事に参加した時には、かつて飢えていた頃の節操のなさと品のなさを発揮し、周りを幻滅させてしまう。仕事中では非社交的で働きぶりも良くないのに、飲み会の時は人一倍注文して不信を買うのも二度や三度ではなかった。今ではそんな機会もなきに等しいため安心しているが、思い出して後悔するし、何より金がない。

つくづく嫌になるのは、こうした貧困による苦労が大してプラスにならないことだ。避けられない苦労は必ずあるし乗り越えるべきものだが、こと食事に困ることに関しては何の足しにもならない。困らなくなった今でも、食事そのものについてあれこれ考えることがストレスだし、あの貧困期間がトラウマになっている。そこまで飢えたことないと言われればそれまでの話で、他者と共有がしにくいのも厄介なところだ。できなかったことは仕方ないし、過ぎてしまったことも仕方ない。しかし、飢えていた期間、自分の人生に詰められない差ができてしまったことは確かなのだ。アキレスと亀のような関係のそれは、簡単に覆せるようでできない。あの時の自分と付き合って生きていくほかない、とはいえ...。

(20.8/18)
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