暑さのせいで食欲が湧かない。しかし、料理をしなくて済むからラッキーだという思いの方が強いので概ねハッピーである。野菜が高騰気味なので、ここ最近は朝昼兼用にシリアルとバナナ、夜は豆腐と野菜2種類くらいで適当に済ましている(ほとんどが生)。ここにアルコールがあれば、もう何を食べようがさして問題はない。料理するにしても具材をまとめて煮た・炒めた程度のものだから、どちらかといえば調理である。生では食べづらいものを食べやすくしているだけだ。そして、自分はこれでいいと思っている。 凝った料理を食べたければ、外食して、対価を払って自分より優れた人に作ってもらえばいい。お金がかかるので、そうそうできることではない。だが、贅沢とはそういうものだ。 いつから料理が嫌になったのだろう。たぶん、したくてもできない時期が続いたせいだ。食材を揃えたくとも経済的な理由で見送らざるを得ない日々を送るうちに、料理への意欲や興味が失せ、それが裏返った形で出てしまったのだ。とにかく、食べ物を口にできるだけで大ごとなのに、さらにその食べ方に凝ろうなんて贅沢だ・・・という逆恨み的な思考である。 金欠時は倹約に励むかといわれるとそうではない。正確にいえば、判断力が失われるためにまともな金の使い方をしなくなる。金がない時ほど、飢えているときほど、(あまりに次元の低い)贅沢がしたくなる。数時間のミスタードーナツ(コーヒーとドーナツで400円くらいか)のために、その一日の食事代をすべて使いきってしまう。いつか金が入ったらアレを買うコレを買う、と無一文でスーパーの中を徘徊したことは一度や二度ではない。個人的な経験では、お菓子とインスタントコーヒー類(カフェオレの粉が入ってるスティックとか)への執着がすさまじくなり、大量に買い込みたくなる。もちろん買えたためしはない。 つくづく嫌になるのは、こうした貧困による苦労が大してプラスにならないことだ。避けられない苦労は必ずあるし乗り越えるべきものだが、こと食事に困ることに関しては何の足しにもならない。困らなくなった今でも、食事そのものについてあれこれ考えることがストレスだし、あの貧困期間がトラウマになっている。そこまで飢えたことないと言われればそれまでの話で、他者と共有がしにくいのも厄介なところだ。できなかったことは仕方ないし、過ぎてしまったことも仕方ない。しかし、飢えていた期間、自分の人生に詰められない差ができてしまったことは確かなのだ。アキレスと亀のような関係のそれは、簡単に覆せるようでできない。あの時の自分と付き合って生きていくほかない、とはいえ...。 (20.8/18)
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