Venture Bros: Radiant Is The Blood Of The Baboon Heart

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2003年からカートゥーンネットワーク内のadult swim枠で放映され、長らく人気を博してきた『Venture Bros』(『VB』)だが、2020年に突如番組の打ち切りがアナウンスされた。ファンダムからはHBO Maxなどに場を変えての復活が叫ばれていたが、ほどなくして作り手であるジャクソン・パブリックとドク・ハマーのコンビは、シリーズ完結作となる映画を一本作ると宣言した。こうして2023年7月にブルーレイで発売されたのが『Radiant Is the Blood of the Baboon Heart』である。今回をもって、7つのシーズンといくつかの長編エピソードを有する『VB』は幕を閉じた。『Radiant』発表から一月ほどでadult swimが新シーズンの制作もやぶさかでないという態度を示したが、ファンダム側からはこの掌返しともとれる態度に警戒する声も出ている。一体どうなることやら。

20年にわたる長期シリーズにもかかわらず、日本における『VB』の知名度は低いままである。ハンナ・バーベラを土台にあらゆる時代のポップカルチャーを引用し、それらが抱く矛盾や滑稽さを浮き彫りにしてしまう『VB』は、率直にいえばオタクすぎた。そのマニアックな内容は、さながらナードが建築したピラミッドである。よって、外の言語圏へと輸出することは最初から想定していなかったのかもしれない。そんな作品がこれほどの長寿シリーズになったこと自体が奇跡なのだ。
 筆者はパブリックとハマーら60年代末~70年代前半生まれの男性とは過ごしてきた時代がまったく違うため、彼らの経験によって培養されたユーモアを共有することは事実上不可能に近い。しかし、その距離のおかげで二人が『VB』でやろうとしていることを観測できるともいえる。たとえば現実世界に存在する著名人(デヴィット・ボウイ、クリストファー・ランバート、ケネディ大統領、アレイスター・クロウリー、イルミナティなど)が本編内にキャラクターとして登場することは、『VB』の性格を知るうえでの好例である。ここからわかるのは、パブリックとハマーがテレビとラジオが主導した時代に育ったナードであること。そして、娯楽の場が細分化される以前の世代の記憶をコラージュしていることだ。エンターテインメントの魔術的な部分をコミカルないしアイロニカルに描いた絵巻物『VB』では、善悪がたびたび交差し、キャラクターの行動をマルチに解釈するように促すことで、ストーリーに多角的な視点を与えてくれる。そして物語自体が伏線という形で、有機的に発展していく。明らかにグッズ展開を想定したようなキャラクターの量産や、登場人物の行動に完璧な動機をつけようとする後出し背景描写がくどい日本的演出とは似て異なる点である。個人的に日本製で一番近いのは『タイガー&バニー』シリーズだと思っている。

とはいえ『VB』はいかんせんコンテキストが複雑で、上で述べた引用の多さという要素も、更年期を迎えつつあるオタク男性に傾きすぎている。そのうえ物語の根幹は揺るがずに各シーズンを貫いているため、きっちり初回から最新話まで通っていかないと作品として完結できない。この出来の良さがかえって仇となり、ローカライズのハードルは素人目に見てもかなり高い。
今後何かの間違いで日本語化される可能性も見越して、ネタバレをこの場で書くことは極力伏せたいが、少なくともシーズン7までの情報を書かないことには『Radiant』の感想も書けないのでご了承願いたい。一応過去に書いた記事もあるので、そちらも目を通していただければ。

 『Radiant Is the Blood of the Baboon Heart』で(改めて)提示される『VB』のテーゼとは、生まれたからにはどう生きるか、いかにして先へ進むかという、存外素朴なアメリカ的価値観である。そして、過去の因果が足を引っ張ってくるというブラックユーモアが絡むことで、『VB』のストーリーを滑稽かつ広大にしているのだった。ストーリーの基本は主人公であるヴェンチャー兄弟に、父親ラスティや祖父ジョナスの因果がふりかかるものである。他のキャラクターにも過去との衝突事故的な出会いは事欠かない。かつて交際してすぐに別れただけのボーイフレンドが敵として立ちはだかったり、あるいはアレイスター・クロウリーやオスカー・ワイルドら偉人を巻き込んだ先祖の代から続くトラブルが、当事者から何から現在に生きる人物に置き換えられたまま再現されるといった具合だ。因果の源を突き止めようと現在から過去へと遡られる時、『VB』お得意のポップスターのランドマーク化が実践される。たとえば、ある物語ではロックンロールの伝説ビッグ・ボッパーとバディ・ホリーが墜落死した日がターニングポイントとして語られるように。シニカル以上にマジカルなアラン・ムーア『ウォッチメン』的混沌に、今日ではモンド映画なんて呼ばれ方もするポピュラー文化のスカムたち(『Radiant』では『The Ghost of Invisible Bikini』のオマージュがある)がコラージュされることで、『VB』から悲愴感は中和される。キャラクターの死や非業の描写が濃厚な日本の作品と比べてるせいもあるが、それゆえに登場人物のドライさに一抹の狂気を見るのだった。

 見知らぬ過去との出会いは、『Radiant』で主人公であるヴェンチャー兄弟の本当の母親の所在が焦点になる展開にも顕著だった。YouTubeにアップされている古いテレビ番組のトレーラーに出演している母親と思しき女優を見つけて、ハンクは涙を流す。というのも、シーズン2にて兄弟は大量のクローンが存在し、死亡するたびに記憶を継承されたまま代替わりするという設定が明かされ、母親の存在が遠いものになっていたからである。シーズン3にてクローンのストックは全滅。たった一人の存在となった兄弟のハンクとディーンは、それぞれのタイミングで自分自身とは何者か、いや誰から「生まれてきたのか」という疑念に直面する。

 『Radiant』はシーズン7最終回で精神が錯乱し、そのまま行方不明になってしまったハンクを捜索するシーンから始まる。ヴェンチャー一家のボディガードにして、特殊部隊OSIのエージェントであるブロック・サムソンがハンクの衣服とスマートフォンを持っている浮浪者を発見し、どこでこれらを得たかを聞き出そうとしたところに、ヴェンチャー・コンパウンド管轄の研究所が何者かに襲撃される事件が発生する。OSIはこちらの捜査へ切り替えてしまい、ハンクの探索は打ち切られた。憤慨したディーンは、単身で頼れる魔術師オーフィアスとその仲間である黒人のブラキュラ(黒人吸血鬼)ハンター・ジェファーソンのもとに押しかけ、ハンク探しの旅に出るのであった。
その一方ではラスティの宿敵にして、親の代から因縁が続いているスーパーヴィラン、モナークが相変わらずラスティに嫌がらせを画策するが、彼と相棒のゲイリーのもとにマンティラという女性が接触する。かつてモナークと交際したこともあるマンティラは、Archと呼ばれる秘密組織を統治しており、これこそがヴェンチャー・インダストリーの研究所を破壊した集団であった。マンティラの真意は謎のまま、モナークはラスティのもとへ押しかけた末に自分自身の正体を知ることになる。それはスーパーサイエンティストとスーパーヴィランという関係性をも揺るがす事実だった。
マンティラがモナークたちに問いかける「What Can Arch Do For You?」(Archにできることはありますか?)は、本編のクライマックスにてユーモアたっぷりの展開をもって返答される。長いシーズンを見てきた人は嬉しくなること請け合い、なのだが、そのためには『VB』のキャラクターたちが好きにならないといけない。これから知るという人にはちょっと難しいかもしれない。
 もう一人の主人公とも呼べるモナークの身の上が明かされる点も『Radiant』の見せ場である。シーズン1の時点から存在した伏線は大きな矛盾もないまま持ち出されている。ラストの登場人物それぞれの会話を見ていると、これこそが原作者コンビの本来のメッセージというか、『VB』というプロジェクトで描きたかったものなのではないかと思わせる。
反対にいえば、このメッセージを何よりも優先した結果、その他の要素は割愛されている。これはパブリックもハマーも、放映直後のインタビュー内で「プロジェクトを妥協するのではなく、プロジェクトへのアイデアを妥協するのだ」と説明しているほどである。確かに完結編ということを考えたら、これまで出てきた重要人物たちが一切顔を出さないため、急いでシナリオを書いたという印象もややある。たとえばハンクの精神が錯乱してしまった原因の一つは、ガールフレンドと思いこんでいたシェーラ(ヴィランであり企業家であるワイドウェールの娘)がディーンと一晩寝てしまったことのショックからだが、このシェーラが本編では回想でしか出てこない。なんだか兄弟の確執を生んだだけのトラブルメーカーのような印象が残ってしまって、後味が悪い。ラスティの父親である科学者ジョナス・ヴェンチャー(つまりヴェンチャー兄弟の祖父)と、そのビジネスパートナー(?)であったモナークの父親ブルー・モルフォの間にあったイザコザも、シーズン7前半で明かされたものだけではまだ不十分であった。歴史に名を残す科学者であるジョナスが、実はヴィラン顔負けな超独善的人物であり、大半のトラブルの種であったという設定は、より掘り下げる余地があったはず。とはいえラストでは、残された仲間や孫たちがジョナスの唯我独尊や哲学を見事に解釈する(逆手にとる)ことで気持ちの良い結末を迎えている。

わたしが『VB』を好きになった理由は第一に音楽がJGサールウェルであり、無節操なパロディ(≒先人たちが遺した作品の解釈)の連続であるというものであった。本編を見ていくうちに、更年期を迎えてもなお、幼少時の自分が内面に住んでいる人への回答のように思えて、世代でないはずなのに懐かしささえ覚えた。なぜなら、同じ米国のゲームデザイナーであるローン・ラニングによるOddoworld Inhabitantsの作品と重なる部分があったからである。同ブランドの『Abe』シリーズでは、民族搾取や自然破壊といったテーゼが、『スターウォーズ』や『指輪物語』への同意や疑念をもって、コミカルに描かれていた。幼少期に触れた時は表面的な部分しか見えないが、いざ時を経て振り返ってみると、そこにはたくさんのメッセージがある。『VB』もまた受け手に、そして作り手本人たちにも、そのことを気付かせてくれただろう。


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(23.12/1)