青梅帰還(半端)

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先週は5日間ほど東京に滞在してきた。人と会ったり、人前で話したり、本を売ったりと連日忙しかったが、凶事なく帰ってこられた。実は出発前々日に財布を落として絶望し、翌日にちゃんと交番に届けられていたことに喜び、感情の上がり下がりに振り回されて疲れていたのだが、なんとか完遂できた。ダメージは肉体的に疲れたのと、duolingをやり忘れてエスペラント学習の連日記録が途切れてしまったくらいであった。
期間中にちょっとしたイベントとして出生地である青梅を散策した。もともと雑事のために向かったのだが、現地に住んでいる知人がいたため、その人と話をする機会もできた。こんなことがない限りは前向きな理由で訪れることはない。

知人と会う前に青梅駅以西の柚木町~畑中エリアを歩く。平日昼間とはいえ人間がまったく歩いていない情景は薄気味悪い。天気が良かったのも逆に怖い。世の中も同じように何も起こっていないと錯覚するくらいである。
よく考えたら幼少の頃からこんな感じであり、真昼の公園などは人さらいが出そうだからあまり訪れたくないと感じていた。下の画像は通学路の途中にあった旭丘公園。町内で一番最初に陽があたるからこの名前なのだという。

大通りはダンプカーなどがガンガン走るため歩道でも危険を感じる。よって一本ずれた住宅の並ぶ道を歩くのだが、立ち並ぶトタンの家と豪華な一軒家のコントラストも変わっていないと気付いた。小学校の同級生にボロボロのトタン小屋な自宅に6人家族という人がいたけど、経済的に厳しい生活をしながらもスーパーファミコンが置いてあったことは覚えている。その人は今どうしているだろうか、見当もつかない。反対に、今考えたら金持ちだったんだなと思うキレーな家に住んでた同級生の家はまだあった。
釜ヶ淵のプールは老朽化で閉鎖され、万年橋をわたったところにある個人商店もなくなっていた。小学校の時に帰宅中に腹を下して、このお店にトイレを借りたことがある。ただそれだけの話だが。

わたしが生まれた家は現在蕎麦屋になっている。その家には10歳まで暮らしていたのだが、引っ越してからすぐにそのお店が入ってきたはずなので、もう20年以上続いているはずだ。そこを訪れて、店主にさりげなく「あの辺でわたしが寝ていたのです」とかリアクションに困るやりとりをしてみたかったが、それはまたの機会にとっておく。

待ち合わせ場所であった青梅駅前は、かつてミスタードーナツが入っていたビルや、シャノアールの入っていたこれまた雑居ビルが軒並み壊されていた。新しいマンションを建てている途中で、どうやらドロップアウトした人や都心から少し距離を置きたい人の拠点としての価値が駅前にのみ発生しているようだ。弱小チェーン「サンテオレ」とか、開いているところを見たことない「ミスターラーメン」も、もはや記憶の中にしか存在しない。中央図書館も移転が決定した。市民会館もよくわからないナントカセンターになっていた。
小学5,6年生の時点で青梅駅は交通機関に乗るための道程くらいの存在だったから、周辺の変化が名残惜しいという気持ちはいっさいない。だが、今や頭の中でしか存在を確かめられない箇所ばかりだというのが不思議である。現地の変遷を写真で記録している人もいるだろうが、まず出会うことはないだろう。それに自分の記憶そのものが曖昧なので、事実をみせられてもそれに納得できるかはまた別の話である。


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(24. 5/31)