3月に発行予定の『FEECO』vol.4にはThe Hair及びあいさとう(現ジーノ・サトー。以下は有名な「あいさとう」名義に統一する)について書いたページが収録される。The Hairを一語で表すならばモッズ的でないモッズ、つまりはオンリーワンを志向する精神のアウトプットなのだが、その音楽を大別するならば60年代とリズム・アンド・ブルースだろう。日本発のリズム・アンド・ブルースということはシティポップ~ディスコ・ブギー再評価に類すると思われかねないが、60年代と書いたように別の話であり、むしろThe Hairは一連の幻想を伴う80s再評価の反動として目を向けられた方が自然である。ネオンに照らされる都会の表通りではなく、自動販売機だけが寂しく光る裏路地に面した地下のクラブで流れる歌。ファンキーではなく「キンキー」な演奏。ウェルメイドプレイからラフなサウンドに、あるいはニューエイジからサイケデリックに。ある時期からThe Hairのヘッドたるあいさとうは、90年代中頃にいわゆるブラック・ミュージックから和モノへ転向した。2012年頃にはジーノ・サトーと改名して、新バンドThe Geno(後にThe Geno London)としてオーセンティックなノーザン・ソウル育ちのロックンロールを演奏している。その名の由来とおぼしき「Geno」(ノーザン・ソウルのレジェンド、ジーノ・ワシントンを讃える歌)なる曲を持つDexys Midnight Runnersがごとく、あいさとうは東京中央の地下に居座りながら、艶やかで虚飾めいた流行にずっと背を向け続けている。個人としてはSNSの類での発信を一切行わないところも含めて、あいさとうの孤高を貫く態度は静かに勇気を与えてくれる。 『Out of Our Hair』はThe Hairのファーストにして、もっとも神秘化が進んでいる杉村ルイ在籍時代唯一のアルバムである。あいさとうに、前身バンドであったBRIGHTON BLUE BEATS~The ACEから続投のヒロ及川、江口マヌー、そしてボーカルにしてバンドの「フェイス」となるルイの4人で、当時の根城にも近いハコだった新宿JAMにて録音された。 The Whoのレパートリーの一つでもある「Young Man Blues」、「かつて若者にはタマがあった」と嘆くこの歌は、当時(バブル経済時代)の都市に生きる、去勢された若者たちに向かって独り言のように吐き捨てられている。「あれはするなよ」も「ロッキン・チェア」も、ルイの2割ラリったような歌唱のおかげで、うわごとのようにヨソヨソしく、ヨワヨワしいモノローグだ。実際にThe Hair、というかあいさとうの仕事は、数少ない例外を除けば作詞と歌い手が分けられている。あいさとうの世界観はボーカリストというフィルターを通すことで、氏のエゴがはぎ取られて普遍的なメッセージになる。それこそ歌い継がれてきた数多のブルースがそうであるように。歌詞も掲載されず、リスナーが各々で受け取るしかない。これは一コミュニティにおける生活の一部としての歌の役割を重んじた結果か、はたまた正解を「提示しない」謎かけとしての詩を書き続けたデヴィット・ボウイ的な芸術の道筋なのか。なんにせよ、後にあいさとうが、多くが同じ方法で作られている昭和歌謡へと向かったのは自然な成り行きと言える。このやり方は後続のSCOOBIE DOにも継承されていることも添えておきたい。 筆者が『Out of Our Hair』(オリジナル)を手にしたのは2007~2008年くらいの頃であった。The Hairの音源としては4番目くらいの体験で、和モノ路線に傾いた『恋のサイケデリック』とも、小西康陽のREADYMADEから出た『いま創られつつあるレコード、あるいは「ローマをみてから、死ね。」』とも違う、ラフな録音に驚いた。北沢夏音氏が『クイック・ジャパン』で連載していた最高のニュー・ジャーナリズム的読み物『ヘアー!ーーモッズ族。あるいはトーキョー・ヤング・ソウル・レベルズ』で綴られていた、少し侘しく地上にはないであろう物語、その秘教的ともいえるムードにピッタリだった。 (22.1/22) |
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