ヤスミラ・ジュバニッチ監督『アイダよ、何処へ?』を鑑賞してきた。映画はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争内で起きたスルプスカ共和国軍によるボシュニャク(イスラム教徒)の虐殺事件を主題にしている。3つのディケイドで民族間の溝を描いたダリボル・マタニッチ『灼熱』と違い、無数に行なわれたホロコーストのうちの一つを切り取ったドキュメンタリー志向のおかげで、建設的な示唆がほぼない重苦しい内容であった。第二次大戦以前から始まっているバルカンの紛争史を一つの時期、事件、作品だけで総括できるわけもないので、これは当然といえば当然なのだが。 釈然としない感情、苛立つことは私には欠かせない。正確に言えば、何に対して苛立っているのか、それを確認することに、これまた語弊を生みかねないが、癒されるのだろう。これが私にとっての宗教に近いものかもしれない。個人の力ではどうにもならないという現実、定理に立脚することでこの世にバランスをとっているのだ。小さいスケールでは「ある人が何かをきっかけに批判されても、同じことをやっている別のあの人は見逃されている」といった現実の非対称的なところ。より視野を広げれば「政権交代などの劇的な変化が起こらない」。究極的には「紛争がなくならない」エトセトラ。どうしようもないことに囚われることがやがて自傷行為的な依存を生み、その苦悶がなければ日々を過ごせなくなってしまう。バロウズのジャンキー理論と同じで、苛立つことが目的なのではなく、何かをするためのエンジンとして苛立ちが欠かせなくなってくる。誰しも苛立ちの根は違えど、このように生きていると私は思う。 長くなったが、こうした釈然としない気分の時に受け入れられる音楽があるという話をしたい。鎮静や癒しをうたったヒーリングも、高密度や高速で爽快感を演出する音楽も、気分や思考を完結させようとするお節介さがあり、釈然としない時にはお呼びでないといって心を閉じてしまう。イライラし続けていたい私にとっては、虹釜太郎さんが自身のbandcampで発表した『CHIVA VIVA EXTRAVAGANZA IMMORTAL ENTOURAGE』のような音楽にこそ心が開かれる。「心が開かれる」とは、Current 93のデヴィット・チベットが英国フォークの大家シャーリー・コリンズとの対話の中で、歌い継がれてきたトラッド・フォークの魅力を形容する際に用いた表現である。悲惨な現実を歌っているはずが、その言葉がするすると聞き手へ染み渡っては感情と結びつく。カタルシスとも呼べるし、時には「法悦」といった表現がなされるものかもしれない。だが、そこに安易な結論づけはない。すべては個人の中だけで起こり、完結していく。 『CHIVA VIVA EXTRAVAGANZA IMMORTAL ENTOURAGE』はリフともフレーズともいえないレガート的な音、具体音、そして既存の音楽をコラージュした30分間の曲が2つ収録されている。曖昧さを保ったまま実現されるスピーディーな展開は、〇〇的という形容がもどかしく感じるほどに独自のタイムスケジュールを確立している。ことわっておくが、決してテンポが速いという意味ではない。 (21.11/16) |
---|