Mikado Koko / Maza Gusu (2021)

フランスのAkuphoneレーベルのことを知ったのは中東~バルカンの民族音楽を加工する音響作家Kink Gongのアルバムからである。60年代の残り火たるフリー・トランペッターのジャック・ベロカルや、中国の女性歌手リリー・チャオの復刻、邦人作家によるエレクトロニクスのオムニバス『青踏』といったリリースを見るに、このレーベルは「西側」の定義から外れるフォークロアを重用するスタンスなのだろう。耳に明らかな言語の差異(英語以外で歌うということ)だけでなく、「音響」でその姿勢を明かしているところも面白いところで、逆説的に我々が音そのもの以外の情報で音楽を判断しがちな事実に気付かせてくれる。

オムニバス『青踏』は平塚らいてうや伊藤野枝らが寄稿していた雑誌に由来する名を持つことにふさわしく、参加者がすべて女性であった。Fuji-Yuki、Kiki Hitomi、Miki Yui、Kuunatic、Kakushin Nishihara、Keiko Higuchi、そしてこの記事で取り上げているMikado Kokoである。Mikadoはここで日本民謡の深川節をリズミカルに再構成している。
Mikadoが2021年1月にリリースした『Maza Gusu』は、マザーグース、英米の童話をモチーフにした作品で、多くがシャルル・ペローの童話から切り取られた物語のようだ。Mikadoが自前の音響(ループ主体であったりブレイクコア調であったりと、退屈しない)の上に語りを乗せていくものだが、その語り口が『日本昔ばなし』っぽくしてあるのが面白い。物語と語り方が入れ替わったとしても、この作品は成立するだろう。つまり、国や文化圏は違えど、人類は本質的に同じ物語を共有してきた面があり、おとぎ話はその最たるものなのだ。どんな時・どんな場所でも同時代性を発揮する普遍的な性質があるということは、黒人の子供の数が減っていくだけの話である「Ten Little Kuronbo」が、2020年のBlack Lives Matterに捧げられた曲に聞こえてしまうことからも明らかだ。

不思議な偶然が本作に特別な色付けを与えている。古い物語の読み聞かせという型は、2021年3月から始まった、Phewとイラストレーター・小林エリカによる昔話の音読とシンクロを見せた。また、エレクトロニクス一本になって以降のPhewソロ作は、留守番電話のメッセージのようにボソボソとした口伝調の歌声がよく耳に出来る。似た例をもう一人挙げるなら、Phewよりも夢うつつな音響とポエジーの匠であるHacoだろう。彼女の歌もナーサリー的で、今年出たアルバムには『Maza Gusu』でも鳴っているドラムンベースめいた瞬間さえあった。
口伝するということは大きな時間の枠組みでものを見ることである。ダイイングメッセージだろうがおとぎ話だろうが、それらは現在ではなく未来に何かしらの希望を託すこととも言い換えられる。『Maza Gusu』の場合はグリム童話ではなく、ペローの童話を基にしているというコンセプトからして、根底に現在への悲観がある。それゆえに絶望や嘆きにある種の親しみやすさ(澁澤龍彦がペローを「あっけらかん」と評したように)を与えている。遠い未来でも、現在と同じように現実に押しつぶされている人たちのために。
時代を反映しているかは時間が経ってこそわかる、とPhewも話していた。Mikado Kokoの音楽、とりわけ『Maza Gusu』も古今東西のフォークソングのように普遍性を保ちながら残っていくだろう。その後ろで鳴っている音が、少しばかりドラッギーな電子音楽であることに首をかしげる人たちが目に浮かぶ。


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(21.9/7)