SCOOBIE DO / かんぺきな未完成品 (2013)

多摩市西部の山と団地の合間にあった生活協同組合倉庫での夕方アルバイト中に同僚の主婦(昔JAシーザーと飲んだことがあるだとか、謎の多い方であった。)が「早朝にスペースシャワーかなにかでSCOOBIE DOの新曲MVが流れてた」と教えてくれた2013年5月15日、自分はその曲が収録された『かんぺきな未完成品』を出勤前にしっかり買っていた。発売日ダッシュなんてしたのはこの日が今のところ最後かもしれない。我が人生でNO MUSICなにがしという某レコード店のコピーが思い出される暫定的には最後の瞬間であった。
『かんぺきな未完成品』は、SCOOBIE DO(以下スクービー)が311こと東日本大震災があった年の秋にリリースした『MIRACLES』以来のアルバムとなる。時間が経ったからこそ言えることだが、311以降の異常をようやく日常として受け入れはじめたような感触があの年にはあった。生きていく以上は「ひとまず」そうするしかなかったようなのだ。『MIRACLES』が応急処置ならば、『かんぺきな未完成品』はその後のリハビリ。前者が泣きっ面に差し込む夜明けならば、後者は素面で眺める晴れ時々曇りである。311以前の最後の夏に出たピーカン賛歌『何度も恋をする』から『かんぺき』に至るバイオリズム的な移り変わりは、まるで自分のことのように身近であった。「ポップは時代の無意識を反映する」といったロック・ジャーナリズムが書きそうな大言壮語に頷いてしまいそうになる。

そんな大げさかつ他人事じみた目線で書く雑誌で取り上げられる(偏見)歌の多くは、核心にこそ迫らないが、リップサービスとして単語レベルで世相に言及する。みなさんと同じ話題を共有だけはしてますよ、といった風だ。『かんぺきな未完成品』もその類なのだが、具体性を極力薄めてあるところがミソである。そして、スクービーにとてはデビューした99年からしてそうであった。The Hairを見てきた彼ら(マツキタイジロウ)の歌詞は固有名詞がめったに登場しないほどにはタイトで内省的な世界観なのだ。それは、世の中に物申したいことなぞないが独り言くらいは言わせろよ、という一人で傷つき一人でもがくフーテンもどきの歌である。デビュー前に演奏先で配っていたテープを聴き直すことによる自身の再発見が『かんぺきな未完成品』の推進力になったそうだが、この独り言の域を出ない個人的な政治を自然に歌える空気が2013年にはあったということなのだろう。断言することの権威を拒みながら、自らの臆病を肯定する、そんな宙づり仕草はこと日本において見慣れた風景だし、何より身に覚えのある態度でもある。だからこそ『かんぺきな未完成品』は居心地が悪く、それでいて無視できない。はっきり言葉に起こせるならば、思考をわざわざ表現の場に持ち込む必要はないと自分は思うのだが、こんな意見も宙づりの2013年という時間を経てからの後出しにすぎないだろう。バンドにとっての「現在の」声が、まるで自分を代弁しているかのような、そんな都合の良い聞こえ方が「あの時には」あったのだ。
断言を避けている割には当時の取材で作詞作曲担当のマツキが「難解な語は極力使わず、おとぎ話のように幅のある捉え方ができるようにした」とか種を明かしちゃっている。デヴィッド・ボウイ(そういえばこの年に突然復活したのだった)には及ばない、マツキの真面目さがうかがえる場面であった。往年のフォーク歌手のように歌い手のエゴを取り除いて、曲と詩に込められた時代精神の媒介になるとまでは行かなかったようだが、そのわずかに残った自我は『何度も恋をする』でも表現されていた70~80年代の歌謡曲、井上陽水や松任谷由実を頂点にした曖昧さ、少ない言葉と限られた語彙でより広くて深い世界を表現する言葉の匠への憧れと言い換えられるだろう。そして『かんぺきな未完成品』にだって、曖昧さの中からメッセージを取り出すように自決を促す力がある。

梯子を外すように聞こえるが、詩を読んでみれば震災以降に溢れた「頑張れ」の声と本質的に同じものを共有していることは、正直すぐにわかる。その前向きさが絶望に立脚しているからこその曖昧さであった、とも。ひょっとしたら当時の自分がマーダーバラッドを介して世界の矛盾を歌うCurrent 93などを(翌年に出すこととなるミニコミで取り上げた)聴いていたことも大きかったのではないか、と今になって思う。何よりもおとぎ話という形容にリアリティを感じたものだ。

音の話もしておかねばならない。デビュー前のデモテープが源泉なだけあって音はガレージロック風、ゴージャスだった前作『MIRACLES』とは対照的なローファイに寄せてある。『何度も恋をする』でシティポップのリバイバルに先駆けるもまったく相手にされず、(((さらうんど)))による艶々な『New Age』などが出た年に、音質から曲そのものの粗さ(スクービーはライヴ活動が主体なので、実演することによって曲が出来上がっていく)を押し出す噛み合わなさには驚くが、そこにバンドの一匹狼ぶりが表れている。
「想定外のハプニング」や「愛と呼べたら」は、単調かつ広大なリフの間に言葉を投げ込む向井秀徳との共作「Roppongi」以来の得意技だが、おとぎ話というコンセプトにあやかって匿名性を出したかったのか、ボーカルにエフェクターがかまされ、さながらチャントのよう。ゆらゆら帝国「すべるバー」そっくりなタイトル曲や、ルーディーなリズムとギターがメロウすぎる「悲しみと踊りながら」は、デビュー以前のバンドにとってゆらゆら帝国が「いい音」の規範であったことを告白する(アルバムリリース時は松木と坂本慎太郎の対談もありました)。小走りなベースをよそにギターが口ずさんでるようなリフが気持ちいい「ハートビート」や、サビがなぜだか立志舎グループのCMソングを思い出す「もういちどやってみよう」が醸し出すノスタルジーは一見逃避的だが、描写される風景は311以前の数年よりももっと遠くに経過したものであり、バンドが昭和の歌謡曲から見出す理想と、早川義男いうところの「懐かしいと感じる音は会いたかった音なのだ」を体現した秀作である。そもそも後ろ向きなら「もういちどやってみよう」なんて曲名は付けないだろう。

このアルバムが出て数ヶ月後に自分は続けていたアルバイトをやめ、自営業者(という名の日雇い労働者ではあるのだが)としての生活を始めた。私事も世相も何一つ進展しない中で防衛本能的な平静を迎えた2013年に、自分の手元に何が残っているか、何なら続けられるのかを再確認したことが本作を今でも再生する所以になっている。


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(21.5/29)