
| 先日の30周年記念公演からライブ物販と通販がはじまったニューアルバム。彼らはライブ巡業が活動のすべてといってもよく、本作は今までのようにレコード店やamazonに卸していないことから、いよいよ旅の行商人、生業としてのバンドマンというイメージが極まってきた。そんな小作人根性がアーティストやミュージシャンという形容に抱かれがちな神格化をとっぱらっているし、バンド自身もそれを自覚するところである。だからこその先行シングル曲「インバウンドブルース」と「データじゃダメ」であり、後述の「コンプライアンスブルー」ともども時事ネタにわかりやすいほどに接近してみることにも繋がっている、だろう。巡業中の世間話をそのまま歌詞にしたシンプルさは、「インバウンドブルース」や「BUKKADAKA STUMP」のオノマトペ的フックに如実な愛嬌としての駄洒落に結びついている。送り手も受け手も同じ空気を吸い、同じ空の下に生きていますと書けばややも白々しく聞こえるが、彼らのライブに行けば、オーディエンス=プラスワンモア、見て聴いてくれる人がいなければ成り立たないという率直な実感に溢れている。日々がかろうじて続いている事実に感謝するのは、いよいよ怒髪天の域に達しつつあることの証左か。23年前、メジャーデビューしたころの『クイックジャパン』誌インタビューで、「ザ・ヘアのようなアーティスティックなバンドではない」(要約)と述べていたように、すでにスクービーはミュージシャンやアーティストではないナニカであった。それをはっきりと肩書でないバンドマンと言語と生き方で表明できるようになったのが、23年前と30周年の今日の違いであった。 本作のテーマは「あったらいい7インチ」ということでどの曲も尺が3分ちょっと。楽曲はギター多重録りこそあるが、ライブで再現できない工夫は極力抑えてある。コーラスや鍵盤・吹奏の類もなく、ライブで四人が演奏することを第一にした機能的な理由こそスクービーのモチベーションとも思うが、本作はより四人であることに集中した内容だった。今回と同じく、リリース当時は原点回帰をうたっていた『かんぺきな未完成品』(2013)は、ボーカルにオーバーダブなどの加工を入れまっていたし、ラフな録音含めたノイジーな手触りがハイファイな世間へのカウンターとして使われていた。本作はそんな他者があっての自分たちという客観的目線も控えめで、2017年の『CRACKLACK』以降の絞られた筋肉と体幹をもって作られている。装飾はないが無駄もない武骨なモニュメント、と書くと愛想のない記号的なジャケットにも首肯できる。 どの曲も各メンバーのキメどころを用意したセクション分けがあり、チョップしてループさせたくなるギターリフ(そしてそれの多くがイントロだ)は健在。「ウチナルコエ」と先行シングル収録曲「緑色の猫」のように、持ち曲200超えゆえのデジャヴもあるが、それはすでに味の域に達している。多作なソウル作家の音をあさっているうちに、曲の区別が一瞬つかなくなる、積み重ねられた歴史に迷い込んでいるような貫禄が、いよいよこのバンドにも表れてきた。本作は過去のスクービーが残してきたものと同じように、数十年後に見つかる古くないソウルとしての余裕=下心なき平常運転の産物だが、建築の図面を引くようにデモ段階から設計していた『CRACKLACK』のチャレンジ精神もなりを潜めている。いや、その取り組みが時事ネタ含めた一部の歌詞なのかもしれないが、「コンプライアンス」や「物価高」といったワードとそれに即した歌詞は、ユーモアがテーマに閉じ込められた感触もあり、正直むずがゆい(個人的には前作収録の「正解Funk」も同じ悩みのタネだ)。それとも数十年後に時代の特定が難しい音楽として見つかった時、これらのリリックがタイムカプセル的なムードをもたらしてくれるのだろうか。なんにせよバンドもプラスワンモアも長生きして、日常の風景としての本作がどんな色味を帯びていくかを確かめる必要があるようだ。そうすれば何事も過剰な世相において、スクービーのストイックさが一つのオアシスだと改めて感じられるし、「毎度大人は」と「子供にもどって」のような息継ぎの時間の大切さにも気付けるはず。 (25. 9/24)
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