Ghost Box Recordsにおける最大のインスピレーション元はBBC内に設立された音楽部門Radiophonic Workshopである。同スタジオがやっていたように、発表される作品はいずれも作家性を極力廃した生産品、アートではなくプロダクトと呼んだ方がしっくりくる。Ghost Boxにしては珍しくバンドというフォーマットをとっているBeautify Junkyardsでも、音楽を伝達する装置に近い佇まいである(昨年にはメンバーであるKyronのソロ作品が出るなど、少しだけ作家個人に注目が行く機会があったが)。バンドの音楽性がフォーク・ソング乃至トラッドであることもこれに拍車をかけており、Ghost Boxと合流する理由として納得もできる。労働者や共産主義者といった共同体内の連帯、あるいは登場人物の背景が不鮮明なまま綴られる日常(我が子を手にかけるといった不穏な内容も多い)のために歌われるフォーク・ソングは時を越えて今日でも同時代性を得ている。 Beautify Junkyardsの音楽は後者に寄ったものであり、今ではアシッド・フォークなどの造語によって一つのジャンルとして識別されているそれが参照されている。アシッドフォーク研究書『Seasons They Change』(2010 Jawbone Press)著者ジャネット・リーチは、同書序文中で「地中へ目を向けるときがきたのだ」と主張しているが、これは表立って評価されてきた歌手やバンドではなく、物好き間でのみ評価を高めているような存在も立派なフォークの水脈の一つであることを意味している。この見解は90年代後半のフリーフォークの勃興からポピュラーとなり、2000年代に起きたヴァシュティ・バニャンといった歌手の復活はもちろん、Ghosr Boxのようなレーベルが示した、古くて少し気味が悪い英国文化の再検討と繋がっている。 これまでのBeautify Junkyardsは、最古参アシュリー・ハッチングスから身近な先輩The Memory Bandまでがやってきたように、英国中心とした西欧のフォークがいかに折衷的な変化を重ねてきたかを音で伝えてきた。そのテーマの一つは、一言で表すなら自然と文明の共存で、アルヴィオン・バンド『The Prospect Before Us』(1977)はジャケットからして明解である。田園風景のど真ん中にそびえ立つ鉄塔こと電気の通り道、その関係を音で表したのがエレクトリック・フォークという様式をふまえると、ボブ・ディランの電化への転向は、何もおかしくないどころか産業革命以降の英国が辿ってきた自然の変化の一端にも満たない出来事だと思えてしまう。 Beautify Junkyardsがこのテーマをもっとも克明に描写できたのは、2012年のKraftwerk「Radioactivity」カヴァーである。東日本大震災を受けての采配であることは明らかで、プロテストソング的なカスタムを施された現在のバージョンではなく、テクノロジーとしての原子力を客観視するような原曲を歌ったことも注目に値する(日本国内でも細野晴臣が311以降、ライヴで原曲をカヴァーしていたことも添えておく)。 郊外で伝承されるアシッドなフォークにならってきたBeautify Junkyardsだが、新作『NOVA』は都市へ進んだ。それはジャケットの時点で宣言されており、60年代のパリを筆頭に起きていた破壊的創造の精神である。シチュエイショアニストは、自分たちで地図をひくことによって都市が物理的にも精神的にも人間に働きかけることを証明しようとした。心理地理学と名付けられたこの理論は、Ghost BoxのアーティストたちはMoon Wiring Clubらがさまざまな角度から試みているものである。彼らが提唱する架空の土地は、その実彼らの記憶の中に滞留する過去の風景のパッチワークであり、音楽とアートワーク含めたアルバムは一種の地図なのだ。Beautify Junkyardsは『NOVA』で英国の憑在論者たちの思考のルーツ、60年代的なものに正面から飛び込んだ。それは革命を路上から広げんとした時代の精神を、現在で再考したいという意思の表れなのか。全体的にジャジーなバッキング、ほろ苦いともいうべき和音が目立つライブラリ音楽風の仕上がりは、過去のドキュメンタリーのBGMのようによそよそしく、新しいものが希求されていた時代を懐かしむ、あるいは憐れむかのようでもある。ポール・ウェラーが1曲だけ参加しており、かの大物が密かにGhost Boxへ首肯しているのも地味ながらに大きな事実だ。 (24. 10/16)
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