Bugge Wesseltoft & Henrik Schwarz / Duo (2011)

春先から夏にかけては2011年3月11日からの1~2年の同期間どころか、年全体を思い出す季節。東京へ引っ越す1か月前に地震が起きたが、すでに賃貸を契約していたこともありそのまま多摩へと転がり込んだ。これが今の這いまわり人生の序章であった。嫌なことほど覚えているのが青春なら、この数年間はそうなんだろう。受け入れるには苦しいが、この期間に触れたものが自分の一部になっている感覚は確かにある。大小差はあれど個人史とは山あり谷あり凸凹なものだが、その上がり下りの過程で通る点があって、自分の場合はこの『duo』がそれにあたる。どんな時でも通過できる時間を作る音楽・・・。
知ったきっかけは『ミュージック・マガジン』誌のレヴュー欄、2011年の夏であったと記憶する。国内盤が出ており、それなりに人気のあるアーティストの組み合わせだと察した。ノルウェーのピアニスト、ブッゲ・ヴェッセルホフと、ベルリンを拠点にするDJであるヘンリク・シュヴァルツによる、そのままの意味で「デュオ」。書かれていた文章よりもジャケットが気になり、とにかく部屋に飾りたくなった・・・LPは結局手に入らなかったが(2021年3月の時点では妙に高騰している)。なお、ヴェッセルホフにとってはエレクトロニクスとコラボレーションすることは珍しくないようで、他の作品もいいものが揃っている。2006年に出した『Mélange Bleu』というアルバムもかなりよかった。

月並みだが『duo』を一言で表すならBGMである。この印象は最初に再生した時から今日まで変わらない。ビートが入って明らかにメリハリを利かせたりと、曲ごとに性格づけを処しているのだが、不思議なことに立ち止まる気にはならず。全曲通して1つの楽曲とさえ呼べる構成は、シュヴァルツに寄せるならDJ的とするべきか。「Dreaming」や「Kammermusik」(小部屋音楽)に顕著なのはCluster的ストイックさと朴訥とした空気の同居で、いい意味で演奏らしさがない。最後の「One One」(ケルンでのライヴ)だけはシンセの試運転っぽくあるのだが、それでもアシッドハウスのウワモノのように荒々しくない。より近い音楽を挙げるなら実験的なジャズ風演奏からポップス路線への移行がはじまったKraftwerk、というか『Ralf und Florian』(1973)だろう。「Where is the Edge?」の(それまでと比べて)急ぎ気味な進行は『Ralf~』の「Kristallo」を思わせるし、これらを交互に再生しても違和感がない。どちらのアルバムも近所のピアノの演奏が耳に入ってきたような、そんな曖昧さを大事にしている。それが今日では特段と心地良い。

ハッキリしていないところがいい、とは2011年から2013年によく思っていたことである。311以降の閉塞を鈍らせるさまざまな創意が目に耳に入ってきたが、自分にとってはそれらの試み(ワブルベースばっかり使う高揚的なEDMのBGM化や、夏フェスのような大規模な催しまで)が逆説的に現実の重さを証明してしまっていた。やる側もそれを承知した上でやっていることがわかるし、それがまた余計にイライラしてしまった(傷ついていると目に入るものが煩わしくなるものなのだ)。言語やリアリスティックなアートワークを持たないドローン・ミュージックでさえ深読みしては勝手に悶々としていた日々でも、『duo』にだけはそんなリアクションを起こさなかった。このプラマイゼロなバランスが他人にも機能してくれるとは断言できないが、今でもダウンまたはアッパーな状態の揺り戻しを感じる時には本作が頭に浮かぶし、実際に再生する時もある。谷が深い時は出稼ぎだけで終わった1週間の就寝前、浅い時は深夜番組間のCM、徹夜作業中の合間に行くコンビニ(夜ばっか)・・・大げさに書くなら『duo』は人生におけるセーブポイント的瞬間のBGMである。


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(21.3/19)