巻上公一 / 殺しのブルース (1992)

ヒカシューが活動45周年を記念したツアーで日本各地を巡行中。わたしは7月16日(日)の静岡フリーキーショウ公演を観に行く予定である。共演は言触+竹田賢一、ちひるね、チュウソツシスターズ。2023年夏の出来事としてここに記述する。

この機にヒカシューが昨年発表した『虹から虹へ』を聴き、そこから旧作へと遡ってまた同作へと戻ってきた。古いとか新しいという形容はさほど意味をなさず、歌と演奏、ことばが聴く者の中で活きていれば、それは現在の音楽だ。一貫したスタイルを45年続けているならば、なおのこと。もちろん時事ネタを扱っているとかそういう表面的な話をしているのではない。
 ヒカシューの一貫したスタイルとは、やはり巻上公一の声に負うところが大きい。いくつものの解釈を許す歌詞の文学性はもちろん素晴らしい。しかし、情景を浮かばせる以前に、サウンドとしての声、歌、言語ともいうべき原始的な悦びに気付かせてくれるのが巻上の声の力と思える。同郷出身の電気グルーヴや、きゃりーぱみゅぱみゅ、『ドラゴンクエスト』シリーズの呪文にも同じ力を感じる。共通するのは敷居が高くないところだ。神秘はあるが、開かれている。そんな巻上印の声の魅力が特に炸裂しているのが、90年代前半にジョン・ゾーンをプロデューサーとして招いた巻上のソロアルバム『殺しのブルース』と『Kuchinoha』である。
 今回の題である『殺しのブルース』は主に終戦から高度経済成長期突入直後の日本で書かれた、いわゆる歌謡曲を巻上流に再解釈したものである。『ユリイカ』1999年3月号「歌謡曲特集」内で、巻上は「昔の歌謡曲は声に出した時に色彩を帯びるような歌い方を探求していた」と話しており、オノマトペ的に響く日本語の機能をこのアルバムで改めて追及している。ゾーンの力添えもあり、マーク・リボー、ビル・ラズウェル、ガイ・クルセヴェック、スティーブ・バーンスタインなどなど、当時としてはかなり贅沢なニューヨーク・地下シーンの演奏者たちが並んでいる(さらに灰野敬二、大友良英、加藤英樹、ホッピー神山らも参加)。歌番組で実演される歌謡曲のバックバンドが、実は名うての奏者たちであることを考えれば、これは必然的な采配である。

現場がニューヨークということもあり、かつてトーキング・ヘッズがフーゴー・バルの音声詩を歌にしたことも思い出す。しかし、『殺しのブルース』の妙味は歌謡曲の特性である日本的なブルース感覚、巻上いうところの「悲しい気持ち」を去勢しないところにある。巻上から発せられる原始的サウンドは音であると同時に歌詞であり、ストーリーまでくっついてくる。守屋浩「夜空の笛」のカヴァーは、姉を失った弟の心情が「チータカタッタ」と「ヤイヤイヤイ」という音に暗い色彩を与える。原曲が使われた映画は未見なのだが、「悪人志願」は呪詛めいた音使いと「日照り」や「雨降り」といった語または響きとの組み合わせがこれ以外はないというほどに合っている。
 たとえ何について歌っているかわからなくとも、そこに宿る感情が音に乗っかって伝わる。筆者が思い当たる事実を例に出すならば、スティーヴン・ステイプルトン(Nurse With Wound)は日本語を理解できないまま東京キッドブラザーズ(巻上は1974年の同劇団海外公演に参加している)のレコードに聞き惚れ、そこから切り取った歌を自分の音楽にコラージュした。このように人を動かすのが音楽の力だとすれば、ヒカシュー~ソロワーク、口琴の国際交流といった巻上の活動全般でそれが果たされていることは間違いない。
 収録曲についてもう少しだけ書く。「さいざんすマンボ」(トニー谷)は「サイザンス」「アイブラユー」が、「スキヤキエトフェー」(坂本九)では、「サシミ ソテー ヤキトリ ジャンバラヤ」といった具合に、言葉が意味をはぎとられ巨大な音として発せられる。ジャックスの「マリアンヌ」は大友良英(『殺しのブルース』にも参加)のGround Zero~『山下毅雄を斬る』あたりの前景的作風で、日本語がわかろうとも、押し寄せる声の壁にひっくり返る。


戻る

(23.7/1)