終わってからでないと考えようとしないこと

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『MUSIC + GHOST』という本を完成させて、いつものように売りに出している。今回は執筆期間が昼の出稼ぎと重なっていたため、なかなか苦労した。毎回のことなのだが、どうしても一人で編集・校正をやるには限度があるため、むずがゆくなってしまうのは避けられない。紙幅の都合もあるし、締め切りの存在も今回は大きかった。久々に駆け込みで印刷所に連絡をとって恥ずかしい思いをした。入稿直前直後には徹夜するハメになったのだが、肉体的に厳しい場面にはどんな理由があろうと抗えないこともわかった。まだ30代中頃にさしかかったばかりだというのに。とりあえず明らかな事実誤認などはないため、そこは安心した。もっと売れてくれたら、より安心できる。

今回は憑在論だの失われた未来(by マーク・フィッシャー)だの言っているが、究極的には内から湧き出るノスタルジーとの付き合い方であり、自分自身の問題であることを書いていくうちに再確認できた。つまり先に挙げたテーマは便宜上のものでしかなく、いつかは対面せざるを得ないモノについて書いたのだ。普段は書き散らかしてはすぐ次の機会へといく私だが、今回は読者からの声が気になってしまい、ここも大きな収穫だった。ノスタルジーという普遍的な感情を扱ったゆえ、だろうか。個人的に共有できる感情や苦しみなどありはしないが、言語含めた表象づたいに想像してもらうことはできる。別のルートを辿って同じ源泉に至るといえばいいのか、歴史化が目的の本がこうした機会を作ることは稀である。
今回は憑在論3部作の第一弾なので、次には『自伝的に記述されたビデオゲームの再読』が控えている。最後は前二作から得た、あるいは書き洩らしたことを補完するようなものになるだろう。『ビデ再』は夏までに、完結作は次の冬までに発表できればいいと思う。私生活がそれを許してくれるかは自信がない。

 私生活への意識が自分をノスタルジーへと走らせたのは一面的とはいえ、事実である。私生活とは、個人的なトピックはもちろん、今年の出来事でいえばロシア・ウクライナ戦争や日本の情勢が傾きに傾いている大局的なそれまで含めた、自分を取りまく環境すべてのことである。私個人としては種々のトピックに対してのアクションとは、文字通り行動で示すものであり、即物的な反応に結びつくものではない。自主制作に関しても、明確なメッセージがあるのならばこういう場やsnsで普通に書けばいいだけであり、神聖な場として機能させるつもりはない。直接的な表現に還元できない曖昧な自分の一部としてのアート(ここでは人が営んだものすべてを指す。都市生活者の嗜みとかそういうものではない)があり、自分の著述含めた「行動」全般はそれのつもりでやっている。

他人があんなことを言っている、あるいは何も言ってないだとか、そういうところで神経質になっても仕方がない。当たり前だが、オンラインだけが人生でないし、一つの機会がその人のすべてではない。期待してはいけないし、期待の仕方を間違えてもいけない。

表現とは生きている世界に向けられたものである、ならば可能な限りたくさんの(ウマが合う)人に伝えなくてはならない。それはその通りなのだが、伝えるのは創ることとは別の才能と努力がいる。ミニコミ~フリーペーパー気質の高い自分は、どうしても前横に繋がる気が薄く、受け手の方から来てもらうことが前提にある。絵を描くように文を書いて、瓶詰の手紙のように勝手に拾ってもらえればいい。これを突き詰めていくと、本に値段を付けて売るようなことなどせず、得たものすべてを無償で誰一人隔てることなく共有するという原始共産的な方法をとるべきではないかという問いに行き着く。もちろん自分が資産的な余裕をもっているならば、すべて無料で読めるようにインターネット上に解放したいとは真面目に思っている。今の段階ではそれは出来ないし、もとより生業にするには生活が成り立たせられない仕事なのだから、値段は付けざるを得ない。そこで生まれる責任のようなものが仕事の質へと繋がる面もある。しかし、結果として利潤が出ることは歓迎だが、それを目的にしてしまうのは本末転倒ではないか。資本主義は生まれるウン百年前から続いているものであり、もはや潮の満ち引きや雨風が止められないのと同じことなのだが、そこにどんな身のゆだね方をしているかが上で述べた「行動」に該当するものではないか。一人でそんなことを考えているうちに、また資料を手に取り金欠になっている。

「赤字で終わっている以上は金のかかる趣味の域を出ない」という指摘はよく見かけるし、されてきたような気もするのだが、自分のやっていることに価値があると「自分で」認めるようなことはあまりしたくない。純粋すぎる考え方に聞こえるが、世界の(悲惨な)出来事と自分のギャップを受け入れては、その瞬間に思考をまとめてある種の正当化をすることに日々疲れてきている。10年前だったら「こんな時代だからこそ好きにやります」と金がないなりに虚勢を張っていたはずなのだ。今では「好きにする」という言葉に敏感になってしまった。自分にはこれしかできないというのに。宙づりになりながら書いたものが今回の『MUSIC + GHOST』であり、今後の3部作となっていくのであるが、こうした欺瞞にも近い内省がモチベーションになっているのは確かなようだ。そういえば最近「悩んでるうちが花なのよ党宣言」(by 中原さん)してなかったわ。

まるで支えてくれている人たちを枷のように例えているふうに見えてしまったら謝りたい。そういう意味では決してなく、後ろめたさとも借金とも言い得ないモヤモヤがあってこそ、私は初めて動き出せているのであります。残りの3部作も期待してくれて構いません。ただ、次はゲームなんで、今までの著作を買ってくださった方全員に刺さるかはかなり不安である。


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(22.12/17)