アルヴィン・ルシエ Ever Present Orchestra 西部講堂

物販にあったBOXセット15000円

思えば西部講堂に行くのは2回目となるのだが、1回目が何だったのか思い出せない。知人に誘われて行った、学生による舞踏か何かの無料ライヴだったかな?開場から上演までの時間はステージ上で集団による舞踏(吊り下げ含)が行なわれており、それを見たこともあって少しだけ記憶が鮮明になった。

アルヴィン・ルシエの来日は今回が最後だという。せっかく近隣に住んでいるのだから、と行くことにした。私がルシエについて知っていることは以下の3つ。

  1. ロバート・アシュレイ、デヴィット・バーマン、ゴードン・ムンマらと同期
  2. 「アイム・シッティング・イン・ザ・ルーム」、「バード・アンド・ダイニング」、「ミュージック・オン・ア・ロング・シン・ワイアー」といった幾つかの録音
  3. アシュレイと並んで、ウィリアム・ベネットがホワイトハウスのサンプルとして取り上げていた作家

こんなもんである。最後のものは、何もホワイトハウスに限った話ではない。今回プレイヤーとして参加していたオーレン・アンバーチだって影響を受けているだろう。しかし、近年の私的な調べ事にホワイトハウスが頻出するゆえに、ウィリアム・ベネットが影響を公言するルシエとその諸作というイメージが固定されてしまった。たとえ一方的かつ一時的にベネットが取り入れていただけとわかっていても、である。

公演の話をしよう。8つの演目がたっぷりと披露される濃密なプログラムで、この手のサウンド・アートに慣れていないと少しばかり息苦しいかも、という懸念はあった。が、事前に配られたパンフレットには各演目のメソッドが解説されていたため、それを手掛かりにパフォーマンスを追いかけることが出来た。第一に感じたのが、『オートマティック・ライティング』で言語とその意味までターゲットにしていたロバート・アシュレイとの違いであった。言葉がノイズにまみれて消失していく「アイム・シッティング・イン・ザ・ルーム」も、事象としての音、音としての言葉が変質することにフォーカスしている。言葉よりも音に重点を置くのはこの世界では当然であろう。いかに自分がロバート・アシュレイやジョン・ケージによるゲーム的なメソッドのファンであるかを再確認した。もちろん彼らもそれだけではない、と記しておく。
パンフレットにはパフォーマーやスピーカーの位置関係を示した図が載せられており、こうしたメソッドの具象化に励むのがルシエの特色であり指針なのだろうか。パンフレットにあった「事象の中にしか観念は存在しない」という宣言も、逆説的に事象を作り出す方法と原因に執着しているように聞こえる。

グロッケンシュピールによるパターンを反響させて第三の音を作り出す「リコヘット・レディ」、管楽器隊や、それらに弦楽器を加えた共振とビーティング現象を捉える「ブレイド」ほか数演目、E-bowギターの共振がやがて波打つような変化を見せる「ハノーヴァー」、鳥の玩具の鳴き声とそれを拾うマイクの周りをルシエ本人がマイクロフォンを装着したまま歩くことでフィードバック現象を誘発する「バード・アンド・ダイニング」、朗読の録音と再生を繰り返し、周波数が強まると共に言語がノイズへと変質していく「アイム・シッティング・イン・ザ・ルーム」が披露された。

音の変化が明快だったのは「バード・アンド・ダイニング」、「アイム・シッティング・イン・ザ・ルーム」、そして「リコヘット・レディ」だった。第三の音の出現、と書くとクリシェのように聞こえるが、これほどわかりやすいコンセプトもそうないだろう。私がルシエの取り組みにサイケデリックを感じる所以でもある。ハウリング、ノイズ、非音楽的なものもサウンドの一つとして享受できる時代に育ったこともあってか、「バード・アンド・ダイニング」は愉快で、「シッティング」が描く消失のプロセスは嫋やかにすら感じた。同時にルシエ本人がノイズという概念をどう捉えているかが気になった。この実験と結果は、当時どんな感情を持って受け止められたのか。
「リコヘット・レディ」はグロッケンの音が和音やリズムを形成しては分離していく様が鮮やかで、これが一番良かったかもしれない。薄暗い緑の照明が反射した天井と、そこにある何かの機械が高速で点滅していた、あのシチュエーションに依存しているところがあるので、ルシエの本意とは別のところだろうけど。

「シッティング」は機材の不調か何かで、一度仕切り直しになった。ここも意外で、私が思っているよりも即物的な人ではないようだ。どんな結果であろうとも記録として受け止める観察者的な目線でない、ルシエの完璧主義的な側面が見られた。そんな人が鳥の鳴き声のフィードバック(彼はこれをヘテロダイニングと呼んでいる)に「幽霊」という印象を抱くのがまた面白い。
上演中は音さえ出なければ撮影は可能であったが、日本製のスマートフォン特有の無駄にデカいシャッター音(盗撮防止を兼ねているため大きくしてあるという。それも日本は他国のそれと比べて、特段と大きい)は少し気になった。私はもう止めようのない現象だと割り切っているのだが、ああした完璧主義の御仁はどう思っていたのだろう。「シッティング」の時の朗読も、離席した人が階段を上がっていく音に反応して顔を上げていたのが印象深い。

終演後、外に出てみると真っ暗だった。かれこれ3時間から4時間は演奏されていただろうか。いかにも京都な面々(長髪が特に)の合間を縫うように会場を後にした。これからの季節は吉田、岡崎、北白川周辺が楽しくなるだろう。私が初めて左京区にやってきた時の浮ついた気分が少しだけ蘇った1日だった。昔との違いは、出来るだけ良い想い出を作っておきたいと考えるようになったことである。どういうわけだか、「もう時間がない」という言葉がよく思い浮かぶのでありまして・・・。

(18.4/4)