Love's Secret Domain -The haunted and intimate world of Linda³- 日本語文

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オーストラリアのWebメディア『The Aither』にてプレイステーション用ソフト『リンダキューブアゲイン』(1997年9月発売)の記事を書いた。この文を書いている時点ではまだサイト上にアップされていないが、せっかくの機会なので日本語文を先行して置いておく。整えられた日本語の文章を英語にするのではなく、最初から英文で書くことに挑戦してみたのだが、見事に撃沈してしまった。伝えたいことを箇条書きにして、それらを繋げることで節やパラグラフへと拡げていくやり方にも限度がある。事実を伝えるだけなら機械翻訳でいいなんてことはなく、意味を翻訳するには一から文章を書いた方が早いと実感したのであった。というわけで(?)、ここも原文も文法的な間違いなどに関しては逐一修正されるだろう。
日本産の奇妙なゲームを文学的に紹介するという主旨なので、ゲームシステム自体に触れた個所はかなり少ない。『Linda³』のゲームシステムの秀逸さを考えるとピントの外れた評価の仕方ではあるのだが、まあ四半世紀前の古典だからと大目に見てもらうしかない。なお、英文には書かなかったことも補足的に付け加えている。

Love's Secret Domain -The haunted and intimate world of Linda³-

90年代末に生まれたフィクションの中には、独特の終末論的空気を持つものが少なくない。当時10歳前後であった筆者は、意識こそしていなくても確かにその空気を吸っていた。あの頃にたくさん目にしていた(はず)人類が絶滅するといった舞台設定に妙な心地よさを覚えるのは、10歳の自分が今でも精神の奥底で当時とともに生きているからだろうか。とにかく今日になって『クロノ・トリガー』や『クロノ・クロス』のシナリオを見返すと、記憶が逆流するような展開、いわば未来の世界が「そうなった」ことを思い出すような物語から一抹の寂しさを感じとってしまう。ここでいう「寂しさ 」は否定的な意味でない。良くも悪くもない居心地、そのアンビバレンツな感情の最深だ。少なくとも「楽しい」ということばが取りこぼす感情である。心が開かれて楽になる、一種のカタルシスめいたもの。ひょっとしたら「メランコリー」と呼ばれているものなのか?
 それはともかく、上でゲームを例に挙げたのは、この記事で『新世紀エヴァンゲリオン』の話はしないという宣言でもある。本題は同作がテレビで放映されていた頃に発売されたRPG『Linda³』(「リンダキューブ」と読む)である。1995年にPCエンジンのタイトルとして発売され、2年後にプレイステーションへ『リンダキューブアゲイン』としてリメイクされた。今となってはリメイク版の方が有名なので、この記事内でも特記しない限りは『アゲイン』を対象にして話を進めている。

覆すことのできない絶対的な理と対決し打ち勝つという筋書きは、RPGに限らず、多くのフィクションにおいて定番である。ゾンビ映画におけるゾンビが伝染病や人種差別のメタファーとして効果的なように、神・摂理・運命といったものもまた、苦闘すべきテーマの代替として使われる。それを前にした人間たちの感情を映し出す鏡とさえ呼べるだろう。そして『Linda³』においては、運命、このゲームでいうならば「主人公たちの住んでいる惑星が崩壊する」という現実はまさに鏡のようにキャラクターたちを映し出す。そこには世界を変革せんと戦う姿はない。

まずは筋書きを説明しておこう。舞台はネオ・ケニアと呼ばれる惑星で、遠い昔に地球から移住してきた人間と、ビースチャンと呼ばれる原住民が共生する星だ。
8年後に巨大な隕石(これは惑星の住人たちから「死神」と呼ばれるようになる)がネオ・ケニアを直撃すると判明したため、住民たちは他の惑星への移住を始めていた。そこに、突然謎の石板と巨大な箱舟が地上に落下してくる。 石板には神を名乗る者のメッセージが刻まれており、「男女一名同士が箱舟のクルーとなり、地球が滅亡する前にあらゆる動物を一組ずつ箱舟に入れて出発するように」との指示が書かれていた。ビースチャンの長老いわく、この箱舟は原住民の言い伝えにあったものだという。
レンジャー組織の一員であるケンは、先に立候補した幼なじみのリンダを追う形でクルーとなる。もちろん、箱舟に乗るということは、二人がヒトという動物のつがいを果たすことも意味している。
 箱舟は明らかにオーバーテクノロジーの産物であるが、なぜそれがネオ・ケニアに住む人々の前にもたらされたのか、その理由はあまり詳しく明かされない。 一応は「正史」扱いされているシナリオCでは誰が箱舟を送ったか判明こそするが、どうやってその権利を得たのかまでは分からないままだ。
しかし、ネオ・ケニアの人々は得体の知れない箱舟に対して警戒こそすれど、潜在意識レベルではその突拍子もない存在を認めている。神を信じるかどうかは別として、その概念自体を忘れることができないように。 この論理は『ゼノギアス』で描かれる一トピックを思い出させる。 残忍な無神論者にして敬虔な神性の使徒であるカレルレンは、人類が肉体という檻に閉じ込められているというグノーシス的な認識をもって、悠久の時をかけて全人類を間接的にコントロールした末に個人を一つの総体、神的な層へとアセンションさせる「プロジェクト・ノア」を計画していた。
 『ゼノギアス』のラストは人類に課せられた「運命」を破壊することで、一人の人間として生きることを称揚するものだった。一方『Linda³』のリンダとケンは定められた未来を破壊するのではなく、そのさ中に生命の循環を作っていくことを讃えている(ちなみに『ゼノギアス』の発売は1998年2月)。
どのシナリオでもエンディングでは隕石衝突によるビッグバンが死と新生を象徴し、「新しい星」に到達したケンとリンダと動物たちがいろいろな意味ですべての起点となっていく。物語の幕が閉じられるとともに歴史が開かれる。人類はさらなる未来に向けて、ゼロからやり直すために種を蒔き続けるのだ。

「循環」はより小さいスケールとしてゲームシステムにも反映されている。巡る季節や特定の種の絶滅、解体した動物から出てきた卵の孵化など、あちこちでそれが確認できるだろう。
この濃密なストーリーと、ポテンシャルを秘めたゲームデザインは、プランナーの桝田省治によって形作られた。ゲーム本編にはABCからなる3つのシナリオ(正確にはDも含めた4つだが、これはタイムアタック的オマケでしかない)が用意されており、それぞれが同じ登場人物たちによるパラレルな物語となっている。これらのシナリオ間で共通しているのは、人間の普遍的な感情または本能に対する認識だ。いつの時代であっても人々の無意識に根ざしている何かがあり、人類が永く語り継いできた物語たちにそれが反映されている。各シナリオが短い「おつかい」エピソードの連続で構成されていることはわかりやすい比喩である。これら無数のお話が連綿と続きながら破滅の時を迎えていくこともまた『Linda³』が示す「循環」の一面だ。
ゲームが発売されて間もないころにアルファ・システムのホームページへアップされた桝田のコメントによると、この構成は「ヨーロッパのあらゆる伝説やおとぎ話をシナリオのパターンに沿って分類した」本から着想を得たという。おそらくはスティス・トンプソンの『民間説話』か、ジェイムズ・ジョージ・フレイザーの『金枝篇』だろう。

少々ブラックユーモアがすぎるエピソードに満ちた『Linda³』だが、それには理由がある。このゲームのアイデアは、桝田たちが取り組んでいた『天外魔境II 卍MARU』(1992年 PCエンジン)の反動から生まれた。この作品の筋書きは正義の味方が悪の味方を倒すという典型的なRPGであり、自分たちで敷いたレールをいかにプレイヤーに沿わせるかが仕事になっていた。この仕事に辟易した桝田たちは、さまざまな意味で非正道を求めた。シナリオには長い一本道ではなく短いサイクルを。ゲームシステムにはプレイヤーによって進め方に差異が出る幅広さを。その結果が仮題「天国の動物園」で、動物園を繁盛させるためにたくさんの動物を捕獲するのが目的のゲームだった。
桝田はこのプロットが「ノアの方舟」に似ていることに気付いた。そこに間髪入れず世紀末ブームに便乗したオカルト的な書籍が目に入ってきたらしく、ある意味終末に依存していた90年代の空気を感じずにはいられない。
こうして『Linda³』では、世界を呑み込む洪水が隕石の落下へと置き換えられ、惑星は破滅を避けられない運命下にあると設定づけられた。限られた時間と与えられた状況の中でベストを尽くすシチュエーションは、桝田もファンであった『Rogue』(日本では「不思議のダンジョン」シリーズとして知られるタイプのゲームの原典)の本質を反映させたようにも見える。行動する度に現実も同じだけ進んでいく、あの構造である。これはアルファ・システムが2000年に発売した『高機動幻想ガンパレード・マーチ』にも受け継がれている。

一つの事実にも立場の数だけの見え方がある。おとぎ話のように普遍的な物語がそれを実証するように、『Linda³』に登場する言葉やセリフは複数のシナリオ間でアスペルガー的につながり合っている。修辞に富んだ会話も多く、ゲームを進めるためのヒントでさえも例外ではない。プレイヤーに行間を読ませることの強制は、『Linda³』の魅力であると同時に海外へ正式に輸出されない理由のひとつだろう(頑張っている有志もいるようだが…)。
 ある場面で複数の選択肢から一つを選んだのち、「もし別の答えだったなら」 と想像するのはRPGの楽しみのひとつである。『Linda³』においては、そのパラレルな時間軸が、シナリオごとに運命が激変するNPCたちの「選択」にも意識を向かせる。プレイヤーはNPCたちが「愛妻と復縁した」とか「思いを隠さずに告白した」といった個人的な行動をとることによって、その人生が劇的に変わるさまを目撃する。このメタ構成が『Linda³』の物語に冒頭で述べたような「寂しさ」を与えるのだ。『Linda³』は愉快さ、哀しさ、やりきれなさなどが交わる感情の揺らぎを、肯定も否定もせずにただ放出させてくれる機会に満ちている。 リンダやサチコ(シナリオBの主役)はそれを(我々に代わって)実証する存在であり、歪んだ水差しに水が注がれるように、去来する感情に振り回されていく。

[※残酷描写あり。再生する際はご注意を]
ケンの双子の弟・ネクは、桝田が夢で見た「存在しないはずの弟」がモデルになっている。セル画時代のアニメーションがCD-ROMのために解像度を下げられて収録された結果、独特のHauntedな感覚を生んでいる。

あらゆるシナリオにおいて「愛」の在り方が、家族(親または兄弟の言いかえ)をシンボルとすることで強調されている。特に女性キャラクターは悲喜劇両方のヒロインとして描かれ、その強さの描かれ方は神格化とさえ呼べる。これには制作時に桝田が第一子の出産に立ち会い、妻および母という存在に改めて敬服したことが大きく関係している。
余談だが、ゲーム発売前は当時起きた神戸連続児童殺傷事件の影響を考慮し、しばらくの間CMは『もののけ姫』や『ロストワールド』のシネアド枠のみで流されたという。自然崇拝的な背景と女性たちの強さを象徴的に描くペイガンチックな点で『もののけ姫』と『Linda³』は少し似ている。
 シナリオAとBは、愛情を逆進的に走らせる男たち(いずれもボスキャラクターとして対峙することになる)が娘とその母を巻き込んで破滅していく様が描かれる。Aのヒュームは不安を自分の中だけで完結させて暴走し、Bのエモリ博士は妻と娘に見放される孤独に対して幼稚さを炸裂させる(Aのラストに関してはPCエンジン版のセリフの方が良い出来なのだが『アゲイン』では若干修正されている)。だからこそ、シナリオABのセルフパロディ的な描写に富み、上に挙げた男たち含めた多くの登場人物たちがハッピーエンドを迎えるシナリオCが光るのだが、各所で露になる朴訥で男性的なヒューマニズムは、シナリオに携わった者たちの地が出てしまっている。そして、そのむき出しぶりが凝ったシナリオに対して不格好に見えてしまうのはやむを得ない。野営時のリンダのピロートークなどは今見返すと流石にやりすぎである。発売当時、このゲームがいわゆる「ゲーム批評」の対象になっていたのかはわからないのだが、この世界観がどう受け止められていたかは気になるところだ。
 未だに家父長制が社会規範の根底にあり、その一方で資本主義リアリズム~反出生主義といった社会的無力感に由来する負のループが常態化する現在からみれば、『Linda³』で表現されるプリミティブなメッセージはあらゆる意味で古く感じる。しかし、 筆者がそこから60年代に叫ばれ去勢された献身的な愛、"Live and Let Live"といった理想への(ややひねくれた)熱望を見出したことも事実である。
本作の根底にある明朗快活の意は、こちらをナイーヴな気分にさせてくれる。この感傷こそ、自分が世界とのバランスをとる起点であると再確認できただけでも『Linda³』を再考した甲斐があった。


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(22.5/15)