過去と現在のけじめをなくして -倉多江美を読んで-

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昔に生まれた作品を新たに知ったとして、内容の面白さという意味で新鮮に感じるのは多いが、自分がいま過ごしている場所や時代というものへ繋げてくれる経験となると少ない。そして、どれだけ内容が面白くても「面白い」「興味深い」程度の感想しか生まれ得ないなら、(その時点での)作品との関係はそれだけのものである。いいとか悪いとかでなく。
ずっと昔の作品が今日のことを語っている。こんな風なことに気付く瞬間にしか、強いことばを使うとすれば、芸術が力を持っていると実感できる場がない。口では説明しきれない複雑さへの入り口にならなければ、それは(受け手にとって)何も言っていないのと同じではないか。ローン・ランニングの芸術観の受け売りなのは承知だが、じじつ簡潔さ「のみ」が答えとされる世界では、わたしのような即物性を嫌う似非隠者にはこれしか寄る辺がない。

倉多江美のまんがを読んだのは昨年のことである。オムニバス『少女マンガ全集』に「秋の入り口」(1978)という短編が入っていた。「見たことのない街」「静かな場としての冥府」「白昼夢的体験とその記憶」など、形而上学的あるいは抒情的と形容されそうな表現を詰め込んではいるが、その実体は風のように重さがない。主人公の名前がジョジョ(愛称的な?)なせいもあって、荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第5部でアバッキオが死んだ時に、死後の世界にある町からはじまるあのエピソードのことを思い出した。雰囲気がとにかく似ている(『ジョジョの詩』という単行本も出ている)。ここから倉多の他作品への道が敷かれた。Xで倉多の作品が衝撃的だったというポストを見かけたのも大きい。『秋の入り口』と同時期の作品集ということで、78年発刊の短編集『樹の実草の実』を買った。

こうして話は冒頭に戻る。白眉は1976年発表「イージーゴーイング」で、この短編は50年の時を越えるどころかその境目をないものにした。第二次世界大戦前夜に高等学校へ通う若者たちについて(60年代の全共闘運動または三島由紀夫の自決への言及でもある、だろう)。それは突如吹いた風のように過ぎ去っていく展開だが、一度起きたことは決してなかったことにはできないことを教えてくれた。吹けば飛ぶほどにちっぽけだが、その痕跡は記憶から消えることもない。杉浦日向子『合葬』や坂田靖子『村野』に匹敵する、過去へのトンネルとしての(幻想)文学である。
吸血鬼を題材にしたものや英国郊外を舞台にしたものなどは、ヴィクトリア時代をよく描いていた坂田や速星七生にも通じるが、倉多の描く街並みはすべてが絵葉書に印刷された風景のようだ。ディテールは最低限だが、もうそれで充分なほどに外の世界への入り口として成り立っている。表題作「樹の実草の実」は、「秋の入り口」と同じ季節がテーマになっており、作者の骨子が堪能できる。青春と呼ぶ眩さも、冬のように落ち着いた頽廃もない、その間に落ちた悦びの実として作品がある。26歳のころにこんな老成したまんがを描いていいのだろうか。そう思うのは、自分が無意識ではまだまだ時間はあるんだ、若さは永遠のものなのだと盲信しているからだろうか。これもイージーゴーイングか...。

韓国の民俗学をテーマにした「球面三角」は諸星大二郎にも通じる。少女漫画研究において、倉多がどのような立ち位置にいるのかが気がかりだ。米沢嘉博『戦後少女マンガ史』に登場してたっけな?また読み返してみないことには。とにかくハマってしまったので、中古で過去の単行本をいくつか頼み、届くのを待っている最中だ。


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(26.4/6)