先だしFEECO magazine 「Kuraraがあった」

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『FEECO』Vol.7収録記事から先行公開です。

わたしの人付き合いは、割合でいうと年上、それも自分の親世代の人が多い。よく行くお店の店主であったり、この雑誌やウェブ上で公開している文章の読者であったり、フィールドワークとして取材に応じていただく方々など、いくつかのパターンがある。永井荷風が神代種亮にかつての東京の風景を聞いてはそれを自身の小説へと落とし込んでいたように、生まれるよりも前の時代の作家や出来事について調べていると、必然的にその時代を過ごした人の生きた声が必要になるのだ。
そこでよく話題になるのが、かつて存在したお店についてだ。わたしが時間的な意味で間に合わなかったり、あるいは若い時点で縁のなかったお店の話は、当事者の声として本を書く上で重要なのはもちろんだが、それ以前に聞くのが楽しい。成果物を見てもらうのはもちろん嬉しいが、仕事の過程でこうした体験ができることも同じくらい重要なのである。
映画やロックの歴史が語られるとき、当事者世代と若い世代間にギャップが生じる光景をよく目にする。過去であれ現在であれ、それは肌感覚をもって過ごしていない時代に対するコンプレックスのようなもので、依存とまではいかないが両者間におけるコミュニケーションである。さほど他者と繋がる意欲がないゆえ、わたしには「あの時代に生まれたかった」といった念を抱くことがほぼない。間に合わなかったし訪れもしなかった店は、そもそも世代が違うのもあって、タイムマシンがあれば行ってみたい程度のファンタジーの出来事である。

そういうわけで、伝説と呼ばれるお店の類にもそういった角度から触れることは少ないのだが、ここにKurara Audio Artsという例外がある。わたしはお店にもオーナーの野界さんにも一切のご縁がなく、この十年ちょっとは散発的にDJをされていたことさえ知らなかった。手元にある氏の文章は『美術手帖』96年12月号のサウンドアート特集のみ。お店について知っている事柄は、96年の『クイックジャパン』で、中原昌也さんがティム・ゲインに「ワスプが置いてある店」と紹介していたことぐらい。それでも、Kuraraへ行ってみたかった。

昨年末に高円寺で開かれた回顧展には足を運べなかったが、関係者たちによるジンや、今回寄稿してくださった高橋さんの文章、そしてオーナーの野界さんの訃報が出た時にSNS上へ投稿されたそれぞれの思い出を見ていると、タイムマシンをいまだ開発していない人類の評価をまた下げてしまうのであった。
ジン『Kurara Audio Arts / Archive vol.0』には、回顧展で再現された店内のディスプレイの写真が収められている。陳列されたレコードのジャンルはバラバラで無節操に見えるが、一貫した審美眼で集められた個人の世界を直感し、そこに親近感を覚えた。音楽映画その他含めた芸術全般に関して、わたしは野界さん(そしてこのお店に足しげく通っていた方々)のような知識も熱量も持ち合わせていない。しかし、あの狭いスペースにばらまかれ敷き詰められたレコードと本たちは、わが十代はもちろん貧していた二十代のころの自分が漠然と思い描いていたコレクション、いや理想の自分の部屋の実像化であった。

わたしはNurse With Woundというアーティストに人並み以上は入れ込んでいるのだが、KuraraのディスプレイにNWWのレコード(野界さんにとってのバイブルであっただろう『Broken Music』にNWWは載っていない。つまり特定の本を鵜吞みにすることなく、他方からのインプットと接続して、あのラインナップを作り上げていたのだ!!)がいくつか並んでいたことは、唯一わたしとお店(野界さん)との縁と呼べるものであり、タイムマシンがないことの不満はこれで埋められている。いや、縁らしきものがもう一つだけある。野界さんは年齢の割に若く、幼く見える風貌だったそうだ。これもまた自分と重なり、勝手に身につまされる事実である。Kuraraでお話したかった。


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(26.4/1)