どう見られているか察せない(春)

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在庫ゼロのまま放置していた『FEECO』のバックナンバーを少量ながら補充することにした。誤字脱字には困らないため見返すのも難しく、ほぼ手をつけずにそのまま再刷した。誤植は運命(by阿木譲)。
それを考えたら、先日出した5号は他の企画と同時進行だった割にかなり整っている。本を作って間もないようなことをいっているが、長く続けていれば改善されるところもあるし、こだわりとして変えないところもあると自分でもわかってくるのが重要だと考えたい。

5号が再読に堪える理由は、活動報告が一義であったことも大きいはず。一つ一つのトピックを記事として、完結したブツとして提示するという前提が、普段よりも希薄だった。よって備忘録的な内容になり、気張らない文章に着地できた。過去に完結させてきた文章が容易には読み返せないのは、自分の痕跡を探してしまうからである。評論ではなく記録を第一とした仕事にもかかわらず、我が出てしまう悪癖は抜けない。
皮肉なものだが、我を抜こうと意識すればするほど、あくせく動く自分が見つかってしまう。ボーリングのようなもので、フォームを気にするとそれが主題となってしまうのだった。フォーム(型)とは色川武大のセオリーの一つであり、いつも通りのやり方を崩しさえしなければ、負けこそしても被害は少ないというものである。自分は未熟なため、まだまだフォームが確立できていないようだ。これが理由で『ビデ再』が難航しているのは明らかで、いざ完成させたとしても、その後いつも通りの我執を抑制した記述というものに取り組めるかが不安である。外からの視線とは、他者のものである。いくら自分があがいたところでシミュレーションできるものではない。

外からの視線といえば、最近になってやってきた新しい悩みというか課題にも該当する。それは『Somnambulant's Still Asleep』をきっかけに、ごくわずかとはいえ雑誌に興味を持ってくれた方々が、おしなべて若いことである。15歳~20代前半が主であり、これらは元来の雑誌の購買層からは正直外れていた。もとより難解な専門用語には依存しない文章づくりを心がけていた(ていうか使えるような知恵がない)が、いざ若年層に読まれるとなると、相手にとって文章が壁になってしまうことが気がかりなのである。読む側は書き手の図りごとも見栄もたやすく看破するため、こんなことを考えるのはお節介にすぎないのだが。
いろいろな分野に考えが向く、廊下のような性格を雑誌に持たせたいと思っているだけに、幸運な機会とも呼べる。マニアックな主題を、それ自体を簡略化することなく、その複雑さにアクセスしやすくなる道づくりに徹したくなってきた。文章から我執を断たんとする考えは、やはり正しかったようだ。英文もしっかりしなければ。


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(24. 4/26)