『あしたのジョー2』そして...家に帰った

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Netflixで『あしたのジョー2』が配信されていた。ジョーの減量のエピソードだけ見るつもりだったが、結局一話から見だして完走してしまった。昔Gyaoか何かでスキップしながら視聴したっきりなので、覚えていなかったり初見であるシーンも多かった。とにかく絵が綺麗で、同時期の国際映画社のアニメと比べるのが酷なくらいだ。謎のウルフ金串推しなど原作にないファンサービスもたくさん盛り込まれていて、なんというか無駄がない。原作に向けられた「もしも」の埋め方が上手くて、原作の余韻さえも素材にした贅沢さがある。メディアミックスというものは、原作と並行して作られがちで個々が不揃いになってしまうものだが、補完に徹したことが功を成している。

何事にも消極的な意味で思案に暮れる日々に見たせいなのか?ジョーの試合、鍛錬場であり帰る場所でもある泪橋下のジムなど、様々な(そして何度も訪れる)風景の中でも、ジョーが気晴らしに入るパチンコ屋(唐突に「青い珊瑚礁」が流れてビビる)や、二階建ての喫茶店の方に意識がいった。言い換えれば、心地よく、馴染んだ。
パチンコ屋・喫茶店・バーもろもろはジョーにとってのセーブポイントであり、一つの通過点にすぎない。必ず行くところではあるが、長居をしてはいけない時間なのだ。勝負は店を出てから始まる。しかし、自分はそのセーブポイントにくぎ付け。自虐的な気分になる。同時に、大げさな表現になるが、自分の立ち位置も明らかになった。
森恒二『ホーリーランド』を読んだ時も似た感情を抱いた気がする(あちらは主人公が自分と同名だから無駄にエモーショナルになってしまう)。漫画家の福満しげゆきも、気合が足りない時はトイレに入って『ホーリーランド』を読むという儀式を行ない、トイレから出ることなく「昂ぶり」を得ていた。自分は今、それと似た感触を得ている。あとは実行に移すのみなのだ。

もう少し本編に触れると、あちこちで相対が描かれいたことに感心した。テンプルを恐れるジョーが顔面への一撃によって覚醒する。食べられなかった金劉飛(若本規夫だったんかい)と食べなかった(飲まなかった)力石とジョーetc。ホセの「ジョーはどこへいく」も、既にあらゆるキャラクターによって叫ばれていたセリフであることを考えたら、実に落語的というか気が死ぬほどに利いている。とにかく心中がわからない孤高の人の描き方がよくて、だからこそホセ戦直前にパンチドランカーであることを自覚していたと告白するくだりがいい。そんな自分を開かないジョーのために他人は涙を流し、その一方で当人は己のためでなく他人(マンモス西やカーロス)に対して泣くのがいいぜ。

(20.7/27)

ちょっとロードワーク行ってくらぁ