「いい人」とか「興味深い」とか

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永野護『フール・フォー・ザ・シティ』が復刻されるとのことだ。去年だかに買って、ぱらぱら読んでいた。一番最初に読んだのは、20年以上前の古本屋にて買った時だが、一切内容を覚えていなかったので新鮮でしたわ。

特に重要でないシーンに、女性を助けた主人公が、女性から「いい人ね」といわれる。それに対して主人公は「よく言われるけどそれだけさ、それは半分バカにしてる言葉だ」的な返しをする。
ここは読んだ記憶があるなと思ったが、よく考えたら自分の体験と重なるからそう思えただけかもしれない。とにかく「いい人」や「やさしい人」という形容をされてきた人生だった。言う相手は喋ったことのないクラスメイトとか、まったく交流のないバイト先の同僚などである。つまり、初めての会話が人格を評価する場面であった。なぜかというと、学校の行事とかでよくクラスをグループ分けし、コミュニケーションをとるだかの一環で無理やり会話させられるのである。最古の記憶は中1の時で、前に座っているタナカという生徒が、わたしのことを教師から聞かれ、とにかく言葉に詰まった。そして「やさしい人」という答えが出た。おとなしい≒無害、という意味合いだったのだろう。嫌な気分とかではないが、未だにこういう言われ方をした時の感情をことばにするのが難しい。情報のない相手だから、こうなるのも仕方ないかと今になったら思えるが。
いきなり仲良くなれるわけもなく、面識のない人間にあれこれ説明されても気まずい。インターネットはその距離をだいぶ縮めてくれたので、顔合わせははじめてであっても、それまでに長くやりとりをしていたから多少は心得があるというケースに恵まれた。とはいえ、中1のタナカ事件(言いすぎ)のようなシチュエーションはまだまだ多い。仲良くなれば、そんな馴れ初めも思い出になるのだから面白い、と考えることもできるか。
打合せとかでも「活動は面白いけど本人は喋ってみたらつまらんかったなぁ」的なしこりを残してそのままフェードアウトする縁に心当たりがそこそこある。それともこの空白はブレイクであり、またはじまるか?

これと近いものに、書いた文章などに対する「興味深い」というレスポンスがある。資料的価値に重きを置いた記事をnoteなどにも書いているのだが、これらの仕事を包括して「興味深い」と言ってもらえる時が多い。だが、それ以外のことばで表現された機会となると途端に少なくなる。「いいね」みたいなもので、「興味深い」とは備忘のためのマーキングくらいのものだと思っている。これに対して「もっと感想くれ」とか言いたいんじゃなく、要はそういうものだから外からのリアクションを過度に意識するのはやめようというだけの話だ。世は発信されたものに溢れている。どんな人でも脳は一つなので、すべてに同じ比率のエネルギーを注いでリアクションするなんて無理だろうから。適切な反応が出るまでに時間がかかるということもある。企画でもなんでも、突発的にポンと成り立つものではないはずだ。あと、これは自分の場合だが、無駄に文字数が多い。現代人に1000字以上は「こういう媒体上では」やさしくないだろう。同じアラフォーになったタナカに読ませたとして、どう思うだろうか。

過去には興味深い≒ナッシングスペシャル、特に面白くはないという意を見出すこともあった。「調べごとは時間がかかるけど、時間さえあれば誰でもできるから。時間と体力があったらわたしもやってます」とか奇妙な飛び道具を投げてくる人もいたが、そういう人はおそらく何もしないだろう。何もできないくらいには忙しかったり、あちこち弱っていたりするのかもしれない。何かしてればエライみたいな考えは一番嫌いなもののひとつなので、そういう意見も納得こそしないが否定はしたくないな。関わる理由もないが。

戻ればいいだろ!!

(25.10/25)