必要であるものが選べる

ツイート

みやこめっせで開かれていた古本市に駆け込みで参加したところ、一部の店が最終日セールで半額にするとか書くものだから、調子に乗ってしまった。上の写真以外にも数点あるが、ここに写っているものは特に必要を感じたために迷うことなく買った。主に19世紀の英国芸術運動や、それらと当時の社会主義とのかかわりを扱った本たち。英国のフォーク(音楽の形態に留まらない伝承全般)を研究する上では避けられないウィリアム・モリスやジョン・ラスキン、ラファエル前派など、人隣りの輪こそ狭いが奥深い。特にモリスは『ユートピアだより』を読んだことで個人的な関心が強くなったため、研究上の必要を抜きにしても知らねばならないと思わせた人物である。彼の理想像、政治的な次元におけるそれは社会主義の色が多分に強く、現在からみると所謂タイムスリップものと呼んでもいい『ユートピアだより』をSFたらしめる色彩の一つに見えてしまった。しかし、150年近く前にモリスがこの小説に込めたもの、彼自身が「過去を現在の一部と見なして歴史を把握すること」と説明したロマンスの念は、(特定のイデオロギーに固定できるほど立派な考えとやらを持っていないにもかかわらず)私の中にもあったものだった。素朴だが、ゆえに到来しないという予感を孕んだ牧歌的世界観へのアンビバレンツな感情は、そのまま今日の世界に響く理想と矛盾に対するそれだったのである。そしてこの二つに挟まれることに、私は(そして多くの人間が)よくも悪くも依存している。モリス、ラスキン、柳宗悦らがそれぞれ独自の角度で試みた商業・生産性至上主義への抵抗は、調べごとという大義名分をはみ出て私自身に沁み込んでくる希少な出来事となっている。

運動の背景にある宗教、哲学、大衆の意識といったものでさえも「裏を取る」という入り口があれば簡単に入っていける。いけはするが、何かについて詳しくなったとて、それを理解したとはいえまい。そうだからこそ情報集めに徹することができるともいえる。
私が書いてきたことの多くは、自分が生まれるよりも前に芽吹いた現象あるいは一作家であり、インターネットが整った時代の恩恵を受けて、蓄積された事実を集めやすくなっていた。これは記号を手元で管理し、一つ一つを結んでいく製図的なプロセスである。点と点を結ぶ線に特別は求められない。ただまっすぐに引くのみである。集められた事実どうしを、いかなる組み合わせで引くか、その時にのみ書き手の理解が問われることだろう。独自の線を描こうと私は思わない。しかし、予期せぬタイミングで点と点が繋がることに対しては敏感である。それは「量」からは導き出せぬ瞬間であり、自分で見つけて、選び取っていくしかない。

若いうちはなんにでも手を出せる。出来るか出来ないか、理解し咀嚼できるかなどは些細な問題であり、経験自体に価値がある。歳を重ねると瞬発力こそ衰えるが、その代わりに眼前のものが「現在の」自分に必要か否かを選べる。自分の力量や使える時間といったパラメータを物差しにできる。できることとしたいことを区別し、限りなく密接にすることで無駄がなくなる(無駄を上手く扱えるといったほうがいいか)。そうすれば視界の外にまで気が散ることもなく、他人が何をしていようが問題はない。タイムラインに飛び込んでくる話題にいちいちつまづかずにいられるし、思考を独り言として切り落すことだってなくなる。現に最近の自分は「チェックする」という習慣がなくなってきた。同時に、調べごと同士が期せずして結びつく偶然に気付きやすくなり、その喜びを大事にしようと思えてきた。


戻る

(23.5/8)