谷川流『涼宮ハルヒの劇場』

ツイート

10数年ぶりの新刊であるが、リアルタイムでシリーズの更新に立ち会うのははじめてだった。はじめてというのは、気が付いたら何かしら出ていたと後手後手で知ることが多いという意味であり、この間にも単行本の発行以外ではなにか動きはあったと記憶している。いきなり語弊のある表現をするが、そこまで食いつくほどに脚本が魅力的とも思わない。しかし、直撃世代ゆえかなんだか気になってしまうのである。

前情報なしで本屋で買って、いざ初出を確認したらビックリした。2005年と06年に書かれたものが半分で、その続編が書き下ろしとして収録されたものであった。この10数年のうち、どれくらいの年月が書き下ろしに費やされたかはわからないが、こんな商売の仕方が成り立つのは流石のブランドだった。いとうのいぢによる挿し絵も、前半と後半および表紙で画風がだいぶ変わっている。読んでる途中で人が変わった、いやわたしが違う世界に飛ばされたとさえ思う。この異なるタイムラインが重なるところがすでにSFっぽくて、プロットではなく作品そのものがそれを実践している事実におののく。実際に今回の脚本は異世界へ飛ばされる内容であるし、これはもう企画の段階で遊ばれているのではないか。誰が?
筋はSOS団が西洋ファンタジーやスペースオペラの世界などに次々とワープし続け、その虚構の世界から抜け出せないというもの。偶然にも異世界転生モノ(2005年に書かれたパートには「異世界転移」という語が出てきた)を筆頭に、昔目にした気がする『魔術師オーフェン』『エルフを狩る者たち』(読んだことはない)的ファンタジーが流行っている昨今と合流する結果となった。だからこそ今に編集して本にしたともいえるか。異世界に出てくる登場人物は、みな同じだが異なる役割を演じているという如何にもな設定は、2000年代前半に目にしていた『THEビッグオー』セカンドシーズンや『ハンターハンター』のゲームの世界に行く話のことまで思い出させる。
ゲームの世界の住人として役割を演じる、その設定(宿命)を知ることで実物の家屋がハリボテとして認識できるようになる。虚構の中でオリジナルであることを保つ。これらはすでに『消失』から「エンドレスエイト」まで、多数の変奏をもって表現されているテーマだけに驚きはない。分化し同じ自分たちが生まれるという設定は特にそう感じさせるものだった。結局、2000年代の産物が現代に合流してくるという状況を上回る驚きは、小説からは得られなかった。

かねてから『ハルヒ』シリーズからは世間と隔絶された世界で展開されている印象を抱いていた。作者あとがきもいつものように業務連絡というか、自分が今生きている世界と同じところにいる気が希薄だった。地震を止められる能力がほしい、と書いてはいるが、それさえも30年前に書かれた一文だといわれても納得してしまう。作者の手元から離れ、別の世界を獲得した作品とはこうなるものなのだろうか。『憂鬱』開始時点で30代前半だった作者のノスタルジアが、シリーズの静止画的世界観(舞台の全体的なモデルは阪急神戸線エリアに現存する建物とそうでない建物の混合である)を描き出したと考えれば、この達観手前の態度にも納得がいくといえば、いく。
ライトノベルの世界でこれだけ長く残り続けているのは、漫画でいえば『ワンピース』並の大業かと思われる(売上とかでなく、記憶され続けているという意味で)。全盛期は間違いなくアニメ2期および映画『消失』公開時点の2000年代末だが、連載開始から6年ほどでその域に達してしまったから、この時点で燃え尽きたのではないか。・・・と以前ならこの適当な客目線で想像して終わっていただろう。30代も折り返しを迎えた我が人生においては、あの仙人じみたたたずまいをむしろ続けてほしいと願うようになってしまった。濁った現在に呑み込まれていないノスタルジアの水脈。作者ペンネームはまるで今のステージのためにつけられていたようなものか。しかし、またペインキラー名義で個人サイトを復活させて、SF批評を淡々とアップロードなんかしはじめたら、わたしの中では間違いなく殿堂入りである。やってくれんかなー本当に...。


戻る

(25. 3/17)