体調を悪くし、それとはまったく関係なくchatGPTを導入する

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派手に体調を崩して入院までしていたのだが、ようやくサイトを更新できるくらいまでに回復した。ずっと横になっていたので、身体を垂直にするのもぎこちなかったが、少しずつ外出を重ねたので早くに戻った。22日に会食をした記憶があるため、その時点でだいぶマシになっていたはずだ。
インフルエンザがきっかけでそこから別の症状が・・・という流れだったので、どこかでもらってきたということだった。京都市で罹患しないのはたぶん難しい。病床も自分が行った時は足りてなさそうだった。今ではどうなのだろうか。これに加えて、昨年末から編集作業や寒くて朝起きられないせいで昼夜逆転になっていたため、日光を浴びない日が多くなり、少しずつ異常をきたしていた感じはある。30代は何か理由をつけて身体がおかしくなるから厳しい。無理をしたつもりはないし、むしろ乗り気で作業できていただけに身体が追いつかなかったのはショックだった。寝込んでる間もあまり善なことは考えられず、嫌な夢もよく見た。寝過ぎて眠れないため、右手だけをべッドから出してゲームをやっても、まあ楽しくはない。独身者は体調を崩したらいっきに傾くという教訓にはなったので、今後は従来以上にいたわるようにする。
積んでいるCDやレコードもこれを機に再生はしたが、正直覚えていない。昨年末に出たナラ・シネフロや、ケイト・ブルックスの『プリズマティクス』(自分の名前がクレジットされてることもあって、よく聴いている)くらいしか、身になった感じはしなかった。健康を取り戻した今では、Paradigm Discから出たインターモヂュレーションの4枚組を堪能している。

寝込んでる間に今回作った『AOR』の制作過程を振り返っていた。相変わらず執筆も編集もワンマンでやっているのだが、今回はChatGPTを使った校正をいろいろ試した。センテンス単位で投げて、重複しているところはないか、てにをはの不自然さはないか、などなど機械的にチェックしてもらう。人力でやらなくていいところはできるだけ楽をしたい。おかげで見てくれに限れば、誤字脱字の多さが自慢だった昔よりはよくなってきている。読みやすさと読んでのおもしろさとは大きく異なるため、絶対的な基準が適用できる過程のみ使用することにした。なので、最終的には印刷して、すべて自分でチェックする。丸投げするのも答えを鵜呑みするのも難しいし、何より校正の過程も喜びの一つに含まれているため、一任するわけにはいかない。

雑誌にはいつも簡易な英文を載せている。日本語文の要約をそのまま訳したようなものだが、今回は日本語文の要約をgptをお願いして、返ってきたものを自分で英語にしてみる形式をとった。字数の指定、文に残しておいてほしい事柄など、とにかく輪郭を自分で設定してやるとなかなかいい答えが飛んでくる。というか手間が省ける。英語のように「書いてないことは書いてない」な文章の世界では、条件を重ねないと思ったような文章は出てこない。とはいえ、訳してるうちに自分で加えたりして実際の作業量は従来とあまり変わらなかったのだが。日本語の英訳はやっぱり文面をそのまま訳している感じで、意味を訳してはくれていない。これが自分で添削する理由にもなるから、悪いことだけでもない。

日本語を投げた時、たいていは「短い文に内容を詰め込みすぎ」と返ってくる。自分の文章はまさにその通りなのだが、人間に同じことを指摘されるより気分がいい。「もっと膨らませてください」「もっと面白くできませんか」とかも言ってこないし。それくらいに、自分は外からの視線や声というものに敏感であると気付けた。自主制作とは閉鎖的な環境を志向しており、それは自分自身のためでもあるのだ・・・と。
何事も他人にやってもらうとなると、相応の対価(金銭とか手伝ったこと自体の価値とか)を出す責任が発生する。寄稿は報酬を払うという関係でいったんは完結するため、幾分か気が楽だから、よくお願いしている。だが、編集や校正といった本作業はやりとりする時間が多くなりそうで頼めない。絶対にどちらかが譲歩するハメになるからだ。商業で本を出したり原稿を書いたりした時のことを振り返れば、他者の目を通したほうが全体に役立つのは明らかだが、今書いたように神経を(勝手に)使うので長くは続かない。自分が勤め人の経験に乏しいから他人と繋がることに慣れていない、とか理由はいくらでも思い当たる。よくも悪くもミニコミ上がりの人間の特徴ということで、実はあまり深刻に考えていないのだが、外から見たら怠惰や不遜に映るかもしれん。一緒にいるだけで気を削ぐとか、グイグイこないからやる気がないように感じるとか、まあ直接指摘されたことこそないが、こういう色の視線を浴びている気はずっとしている。

他人を巻き込んだ方が大きな仕事ができるし、多くの人にリーチするというのは理解できる。だが、いかんせん自分の題材がマイナー文化かつ他人の研究に徹しすぎているので、やみくもに希釈して広めてもいい結果にならないのではないか、という念がいつも立ちはだかる。自分が一次生産者だったらまた違ってくるのだろうけど。


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(25. 2/1)