Belbury Polyことジム・ジュップ氏がインタビューに答えてくれて、その中で「誰にだって黄金時代に間に合わなかったという感覚はあると思います」という発言があった。これは歴史的・文化的な意味でのそれであり、定義する人はみなその時間を「完結したもの」とみなしている。こう考えると、終わっているからこそ価値があり、美しく、尊いのだというちょっとデカダンなところが面白いと思った。 今の私は、朝起きたらまず親族からの着信履歴がないかスマホにかぶりつく。何もなければ胸をなでおろし、日中はまた電話やメールが来ないかビクビクする。何もなくても、顔を合わしに行けば「こんなことをされた」と報告をされ、一緒にいてくれないとまた何を言われるかわからないと懇願されることで、そこに磔にされる。こうした例は今年の夏からの出稼ぎでも、少なからず起こったことだった。自分以外の誰かの一挙手一投足に翻弄される。こんな恐ろしいことはない。10年前は貧しかったが、スマホの着信履歴におびえることはなかった。家賃の督促くらいはあったが、それはまた傷つく良心の部位が違うのでノーカン。 Home IS WHERE HEART IS。人間の本能的な発作なのか、過去を美化して恋しく思うことはやめられないし、日々強くなる。しかし、必然的にないものねだりとなってしまうそれは独善的であり、美しくないhauntologyの発露であるということを、自分で本を書いていくことによって気付きつつある。昔が良かったのならば、その時に感じていたものを、自分の記憶の底によどむそれを再現するのではなく、創り直すしかない。喪失を別の悦びで埋めることはできないが、その色彩を変えることはできる。時間が経てば、失敗や後悔も青春の色味として受け入れられる気がする。そのためにはできることは「現在に」すべてしなければならない。もちろん、個人の精神論的な態度だけで解決できる問題は少ないため、あらゆる何か・誰かを頼らねばいけない。これは方法論上のことである。 (22.12/26) |
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