黄金時代

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Belbury Polyことジム・ジュップ氏がインタビューに答えてくれて、その中で「誰にだって黄金時代に間に合わなかったという感覚はあると思います」という発言があった。これは歴史的・文化的な意味でのそれであり、定義する人はみなその時間を「完結したもの」とみなしている。こう考えると、終わっているからこそ価値があり、美しく、尊いのだというちょっとデカダンなところが面白いと思った。
 歴史的な尺度においての黄金時代があるなら、個人的なそれだってあるはずだ。安易な発想だが、俗世では青春といった語で表現されるような時期を指すものだと
私は思っている。青春という語に対するイメージは、自分が歳を重ねるたびに変化しており、何かに熱中していた時期を形容する時もあれば、失敗が身に染みた時をそう呼ぶ時もある。確かCQのソロアルバムの曲にもそんなラインがあった。
熱中していた時期、あるいは後悔していた時期のどちらにも共通するのは、自分に還ってくるのは自分のやったことだけだということ。つまり、覆すような言い方になるが、後者も前者の一部であるということ。
私にとっての黄金時代とは、バイトが休みの日の朝に(寒いとなおよい)コーヒーを飲んで、来月の家賃をどうすべきかと悩んでいた、311直後のあの数年間であった。今よりも金がなく、人間性も終わっていた時期なので戻りたいとは思わないし、当時迷惑をかけた人間には、かつての愚行を正当化しているようで不愉快に見えるかもしれない。しかし、あの期間にやったことが現在に繋がっているのは事実だし、能動率だけ見ても、確実にあの時の方が今よりも上なのだ。再び到達し、越えるべき自分としての黄金時代があり、そうすることで青春を取り戻せるのではないか。

今の私は、朝起きたらまず親族からの着信履歴がないかスマホにかぶりつく。何もなければ胸をなでおろし、日中はまた電話やメールが来ないかビクビクする。何もなくても、顔を合わしに行けば「こんなことをされた」と報告をされ、一緒にいてくれないとまた何を言われるかわからないと懇願されることで、そこに磔にされる。こうした例は今年の夏からの出稼ぎでも、少なからず起こったことだった。自分以外の誰かの一挙手一投足に翻弄される。こんな恐ろしいことはない。10年前は貧しかったが、スマホの着信履歴におびえることはなかった。家賃の督促くらいはあったが、それはまた傷つく良心の部位が違うのでノーカン。

Home IS WHERE HEART IS。人間の本能的な発作なのか、過去を美化して恋しく思うことはやめられないし、日々強くなる。しかし、必然的にないものねだりとなってしまうそれは独善的であり、美しくないhauntologyの発露であるということを、自分で本を書いていくことによって気付きつつある。昔が良かったのならば、その時に感じていたものを、自分の記憶の底によどむそれを再現するのではなく、創り直すしかない。喪失を別の悦びで埋めることはできないが、その色彩を変えることはできる。時間が経てば、失敗や後悔も青春の色味として受け入れられる気がする。そのためにはできることは「現在に」すべてしなければならない。もちろん、個人の精神論的な態度だけで解決できる問題は少ないため、あらゆる何か・誰かを頼らねばいけない。これは方法論上のことである。


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(22.12/26)