さぼてん堂に行った+円を広げる

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8/1に千鳥橋駅近くにオープンしたさぼてん堂に行った。食堂兼ギャラリー兼スペースという感じで、同じ此花区にあるギャラリー魔法の生活に似ている。長屋を改装したというが、昔から経営していたかのようだった。そこかしこに飾られたレコードやCDと、大きなインコたちがよかったな。この日は魔法の生活を天神さんと一緒に営んでいる永樹さんの演奏と、あちらに預けていたものを受け取るのが目的だったが、共演の沼も北川知早さんも声がすごくよかった。永樹さんのカバーした演歌、美川憲一と小林旭は今日のマーダーバラッドに聞こえる。
現場の隅っこで酒をあおりながら演奏を聴くのは、案外久々かもしれない。一人で居酒屋にいくのが好きだというと意外に思われがちなのだが、自分でも進んでそういうことをする理由がいまひとつ説明できない。ライブは演奏が第一なので、同じとはいわないが。
終演後に会場内のあちこちで為される会話を横目に、定期的に他人と話さないとやはりダメだろうと再認した。名ばかり自営業を10年以上続けていると、びっくりするくらい外と繋がらなくなり、調子を整えるのが難しい。身だしなみの乱れを自分では気づけないことにも近いだろうか。朝のゴミ出しで出くわした人との会話以上の関係をもう少し作るべきだが、昨年から家庭のアレコレで身内と話すことが増えて、外に向ける時間と体力が削がれ気味なのが面倒。若い頃から、腹を割って話すような関係の人間がほぼいなかったし、自分もそれを避ける傾向にあった。こんな風になった今ではそれなりに後悔はしているので、せめて今後は素直になりたいわ。

↓からは繋がってはいるが、ほぼ別の話。

橋本徹×山下洋のFree Soul 30周年記念対談』を読んだ。限られた時代と地域の出来事といえばそうなので、自分にはそれほど縁のない世界ではある。重要なのは、トレンドになる以前、出発点となるリリースやイベント(Free Soul Undergroundなど)として実を結ぶ前からあった両氏の精神性であり、いかにしてオタク的になりすぎない=知識や所有数による権威化を拒否することを表現するか。ジャンル的に自分と合流するところはほぼないため、こういう部分ばかり目に止まる。ただ具体的なノウハウはさすがに明文化されてなかった。過去のことだし仕方ない。
自分が雑誌などで記録し紹介する世界はきわめてマニアックであり、受け手の母数からして少ない。よってポピュラーにはなり得ないし、それらを希釈してまでマスに広める意味もない(伝えるよりも残すことの方が大事だから)。だが、最低限の入り口は整備しておかねば、一見でそれが合うか合わないかを判断してもらうこともできない。数年前から考えはしたが、現実に試すことはなかった思索のあれこれがよみがえる。

容易にに過去へアクセスできるようになった世代の強みかつ弱みだが、とにかく数多のリソースから選び抜いて方向性を絞ることが難しく、あれもこれもマネしたくなってしまう。若い証拠といえばそうかもしれないが、輪郭をはっきり定められないと少し不格好になるくらいは長く続けてきた。拡張よりも収縮してフォルムを整える方に集中している最中である。そもそも『ロックマガジン』『スタジオヴォイス』『電撃プレイステーション』『幻想文学』らをシンセサイズした雑誌なんてあり得るだろうか。

もう一つ、これも常の課題ではあるが、雑誌の発行部数をもっと増やして読者にリーチする幅を広げないといけなくなってきた。経済的にも厳しいからせめて印刷費回収して終わり、では進める距離に限界がある。出すのが目的ならばいいが、長くやっていると流石にそこだけでは自他ともに満たされない部分がでてくる。
改めて考えたきっかけは1月からcaptainhowdie関連の製作物を発行したせいだった。これをきっかけに『FEECO』を買ってくれる人も少なからずいて、海外のマンガはじめとした普段メディア上で目にしないものが載っている雑誌、という点を評価してくれたようだ。あくまで推定だが、Capのファンは10代後半から20代前半の人が多く、わたしとは10歳以上はなれている。従来は自分の親にも近い層が読者の大半だったので、この揺れ幅に対処するのは難しいが、こうした事実がない限りは方針を振り返れないとも思う。
とはいえ、新しい層ができたというほど読者の母数が増えているわけもなく、基本的な内容を変えるつもりはないし、好きなようにやっている姿勢を評価してもらっている向きはある。だから、大切なのは上でも書いたように伝達の手段であり、中身を変えることなくその形状をプラスチック的に変化させればいいというのが落としどころか。それはボキャブラリーを徹底的に幼くしたり、内容そのものをかいつまんで説明することとイコールではない。もともと専門用語を連発する書き方が苦手だし自分でやる必要もないから、変えるべきところは存外少ないはずだ。過去のモノはほぼ見返さないわたしだが、今一度再訪した方が今後のためにもなりそうではある。
3月に出した『FEECO』5号は報告が主な内容で、その業務報告的な誌面とデザインが過去よりも調和していた。見た目の美的な進歩は相変わらず皆無だが、ゲーム雑誌の読者投稿欄あたりを参考にしたページなど、随所に理想がはみ出ていたことは確かだった。


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(24. 8/13)