『暗闇ダンス』感想?と『24アワー・パーティー・ピープル』を探したけど見つからなかったという話

にわかでスマン!


コミックビームにて連載中である『暗闇ダンス』の単行本が出たのでこの度購入した。漫画の単行本、それもビームのそれだなんて何年振りだろうか。発売日当日から手に入れるまで久々にソワソワした態度で働いてしまった。
『暗闇ダンス』はゲームクリエイターの須田51原作、竹谷州史作画(両者・敬称略)による作品で、ジャンルは「パンキッシュ・ロード・コミック」だそうだ。ゲーム以外のメディアが選ばれたことも含めて、個人的には須田作品がなんたるかを今一度振り返るような機会がやってきたと感じた。

大袈裟なことを書いたが、自分は須田作品にそれほど造詣があるわけではない。ヒューマン時代の作品もまともにプレーした作品は『トワイライトシンドローム』くらいだろうか。それも1,2回クリアした程度である。関係ないだろうが、『リモートコントロール・ダンディ』と『パペット・ズー・ピロミィ』は関わっていたのか気になるところだ。
氏の、そして代表を務めるグラスホッパー・マニュファクチュアの人気作となった『キラー7』は、以前に出された『シルバー事件』や『花と太陽と雨と』に並んで、須田作品のパブリック・イメージを作り上げたものだと思っているが、これらも1周したくらいでご無沙汰であった。オンオフ問わず周りにいる熱心なファン経由でゲームを知ることの方が多いほどで、正直に言えばゲーム部分をキツいと感じる瞬間も少なくはなかっため、プレーした回数は本当に数える程と言ってもいい。それでも『シルバー事件』や『キラー7』によって得られた感覚がまた湧き上がるかもしれない、という期待だけはあり続けたため、新しい須田作品が出た時は毎回概要を調べはしていた。この感覚を自分の拙い語彙で説明するのは難しい。例えをいくつか挙げてみると...「深夜にチャンネルを回してたら偶然ぶつかったアニメを見ている時」、「絶賛されている七〇年代のSF小説を読んだ時」、「前衛的な映画を見た後、再び頭から部分的に観た時」、ああ、全く意味が分からない。(自分の勉強と理解力不足も含まれた上で)曖昧な、解釈が難しい作品に触れた時の歯切れが悪くなる気分に懐かしさを覚えるようになった今、須田作品の持つ、こちらとの距離間が気になる時がある。『キラー・イズ・デッド』などゲームはたくさんリリースされていたが、本格的に遊ぶほどには食指が伸びなかった。しかし、『暗闇ダンス』は少々違った。

気を引いた理由自体は単純そのもので、作品解説に用いられる単語とディテールの要約からして、須田作品及び氏を構成するものを感じ取ったからであった。主人公は葬儀屋(須田氏のゲーム業界に入る以前のキャリア)、事故に遭って3年間のこん睡から覚めてみると世界が一変していたという設定、幻覚を相棒にしたバディもの、そして特典として付いてきた「作中の場面で再生するように選ばれた楽曲リスト」である。これらの文字列から、独立した要素が不規則にくっついたカットアップ的な世界が容易に想像できた。いや、これらの要素を足掛かりに須田氏のルーツと目指しているものを察する機会を得たというべきか...。

特典のプレイリスト共々『暗闇ダンス』を何周か読み直した結果、本作は「自分にとって」の須田作品である条件を充分に満たしてくれていると感じた。前述のように須田氏を構成する作品がカットアップされ、ツギハギの世界を形成している様は最初に『キラー7』を遊んだような気分に近いものだった(当時は今のようなサンプリング元を検証する病気を発症していなかったので、今より純粋に楽しんでいたかもしれないが)。これまで通り、ストーリーはあるのだけど、サッパリわからない。『花と太陽と雨と』ラストのモンドスミオのように、把握は出来ていないが、理解はしているといった態度で臨んでいるが、これが大変心地良いのだ。手がかりになるのはスピード狂、3年間のこん睡、王国、自殺、レイヴといった特異なシチュエーションの数々。それらは須田氏の血肉となった作品及びその世界観の入り口となっている。世界観とは単に舞台の設定を指すのではなく、その作家の死生観含めた「ものの見方」が凝縮されたものとして考えた方が正しいだろう。『暗闇ダンス』の元ネタはカフカの『城』と本人からも語られているが、同様に須田版『残虐行為展覧会』や『ニューロマンサー』にだってなり得る。それは今後の進行次第だ。何よりもこれまででも相当の純度を持つ須田作品になり、引用元に並ぶ存在になるのでは、と期待は止まらない。
作画も本作にピッタリで、不勉強ながらも竹谷氏(ご夫妻で執筆されているそうだ)の前歴を知らない自分だったが、これも幸いして没入できた理由の一つだと思う。閑散としたゴーストタウンと王国内の広大な地平、よくよく見るとあり得ない葬儀屋の衣装など、細かい箇所で見どころは多い。

もう一つ、プレイリストに載せられた楽曲たち、中でも作中のレイヴ「暗闇ダンス」時にも名が呼ばれている「ハレルヤ」(ハッピー・マンデーズ)、ジョイ・ディヴィジョンの「デッド・ソウルズ」、ドゥルッティ・コラムの「コンダクト」といったファクトリー・レコードからの出典は、須田氏もこんな記事の中で言及している『24アワー・パーティー・ピープル』を思い出さざるを得なかった。これはファクトリー・レコードの歴史を「神話的に」辿った映画である。恐らくは劇中で語られている事実と同じくらい、嘘がこの映画には盛られている。実際にドゥルッティ・コラムのヴィニ・ライリーはこの映画に否定的で、カメオ出演したパートが没シーンになっていたのは氏本人が拒否したからだと言われている。しばしば場面が飛んだようにシーンが切り替わるところも『暗闇ダンス』とつい重ねてしまう。この作品はファクトリー・レコード設立者の一人であるトニー・ウィルソンのパンキッシュ・ロード・ムーヴィーなのだ。
『24アワー』では須田氏のヒーローの一人であるイアン・カーティスの自殺も描かれている。棺に納められた彼のシーンもまた、主人公・航の仕事と重なるものだ。航のかつての同僚であるGが口にした「ハシエンダ」はファクトリーが築いた巨大クラブで、関わるものすべてにカタログ化するファクトリーの美学に従って、この大聖堂は51番目の作品となったのだった。あらゆる場所からの剽窃が見える『暗闇ダンス』だが、『24アワー・パーティー・ピープル』及びファクトリーは今後も多くその影を見せることだろう。そういえば、ニュー・オーダーの名曲「ブルー・マンデー」はイアン・カーティスの葬式を終えたメンバーが、別れ際に交わした一言が由来になっているのだった。
『24アワー』を見返そうと思って、家や倉庫代わりにしている別宅などを探してみるも見つからない。買い直そうにも微妙に高い。半端に思い出したら、あの 曖昧な映画の記憶が余計にぼやけてしまった。今見直しても面白いのだろうが、あまりに美化した脚本が少し息苦しく感じるかもしれない。『花と太陽と雨と』 や『キラー7』のゲーム部分が億劫と感じたように、良いところと悪いところが昔よりはハッキリと受け止められるようになった一方、作品の出来について話す時はどうしても歯切れが悪くなってしまう。そして自分はそれを楽しんでいるのかもしれない。

壱巻の時点ではゲームじゃないこともあって、『暗闇ダンス』は須田作品のエッセンス、それも自分にとって都合の良いそれに満ちている。しかし、自分のような視野の狭い人間の評価よりも、新たに触れられた方々の声にこそ、『暗闇ダンス』及び須田51のセンスが純粋に反映されているのだと思うし、自分もそこに興味がある。こう考えつつも、やはり自分は独善的に『暗闇ダンス』にインスピレーションを得る。『THEビッグオー』、『Serial experiments lain』、『残虐行為展覧会』、『競売ナンバー49の叫び』、そして『花と太陽と雨と』や『キラー7』が持っていた、あの不明瞭なヴィジョンと共に...

どうでもいい推測。
・Gの称号?クローザーGはJoy Divisionの『Closer』からだろうか。
・ISZKのコンテナや牛頭(ビーフヘッドショップ)などの須田作品からの引用は各自検索して、へヴィ・ユーザーの声を調べるべし。
・英題が「Dance in the Dark」。映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から?『暗闇ダンス』はバービーボーイズの「暗闇でダンス」という説があり、PYG(「花、太陽、雨」)からとった例もあるので捨てきれない。ザ・バック・ホーンの『暗闇でダンスを」とかけている可能性もある。
・事故によって片目の視力を失った航にデヴィット・ボゥイが重なる。偶然にも連載中に逝去したボゥイの遺作『★』のマークは航のシャツにも...。

(16.2/7)

戻る