にわかでスマン!
コミックビームにて連載中である『暗闇ダンス』の単行本が出たのでこの度購入した。漫画の単行本、それもビームのそれだなんて何年振りだろうか。発売日当日から手に入れるまで久々にソワソワした態度で働いてしまった。 大袈裟なことを書いたが、自分は須田作品にそれほど造詣があるわけではない。ヒューマン時代の作品もまともにプレーした作品は『トワイライトシンドローム』くらいだろうか。それも1,2回クリアした程度である。関係ないだろうが、『リモートコントロール・ダンディ』と『パペット・ズー・ピロミィ』は関わっていたのか気になるところだ。 気を引いた理由自体は単純そのもので、作品解説に用いられる単語とディテールの要約からして、須田作品及び氏を構成するものを感じ取ったからであった。主人公は葬儀屋(須田氏のゲーム業界に入る以前のキャリア)、事故に遭って3年間のこん睡から覚めてみると世界が一変していたという設定、幻覚を相棒にしたバディもの、そして特典として付いてきた「作中の場面で再生するように選ばれた楽曲リスト」である。これらの文字列から、独立した要素が不規則にくっついたカットアップ的な世界が容易に想像できた。いや、これらの要素を足掛かりに須田氏のルーツと目指しているものを察する機会を得たというべきか...。 特典のプレイリスト共々『暗闇ダンス』を何周か読み直した結果、本作は「自分にとって」の須田作品である条件を充分に満たしてくれていると感じた。前述のように須田氏を構成する作品がカットアップされ、ツギハギの世界を形成している様は最初に『キラー7』を遊んだような気分に近いものだった(当時は今のようなサンプリング元を検証する病気を発症していなかったので、今より純粋に楽しんでいたかもしれないが)。これまで通り、ストーリーはあるのだけど、サッパリわからない。『花と太陽と雨と』ラストのモンドスミオのように、把握は出来ていないが、理解はしているといった態度で臨んでいるが、これが大変心地良いのだ。手がかりになるのはスピード狂、3年間のこん睡、王国、自殺、レイヴといった特異なシチュエーションの数々。それらは須田氏の血肉となった作品及びその世界観の入り口となっている。世界観とは単に舞台の設定を指すのではなく、その作家の死生観含めた「ものの見方」が凝縮されたものとして考えた方が正しいだろう。『暗闇ダンス』の元ネタはカフカの『城』と本人からも語られているが、同様に須田版『残虐行為展覧会』や『ニューロマンサー』にだってなり得る。それは今後の進行次第だ。何よりもこれまででも相当の純度を持つ須田作品になり、引用元に並ぶ存在になるのでは、と期待は止まらない。 もう一つ、プレイリストに載せられた楽曲たち、中でも作中のレイヴ「暗闇ダンス」時にも名が呼ばれている「ハレルヤ」(ハッピー・マンデーズ)、ジョイ・ディヴィジョンの「デッド・ソウルズ」、ドゥルッティ・コラムの「コンダクト」といったファクトリー・レコードからの出典は、須田氏もこんな記事の中で言及している『24アワー・パーティー・ピープル』を思い出さざるを得なかった。これはファクトリー・レコードの歴史を「神話的に」辿った映画である。恐らくは劇中で語られている事実と同じくらい、嘘がこの映画には盛られている。実際にドゥルッティ・コラムのヴィニ・ライリーはこの映画に否定的で、カメオ出演したパートが没シーンになっていたのは氏本人が拒否したからだと言われている。しばしば場面が飛んだようにシーンが切り替わるところも『暗闇ダンス』とつい重ねてしまう。この作品はファクトリー・レコード設立者の一人であるトニー・ウィルソンのパンキッシュ・ロード・ムーヴィーなのだ。 壱巻の時点ではゲームじゃないこともあって、『暗闇ダンス』は須田作品のエッセンス、それも自分にとって都合の良いそれに満ちている。しかし、自分のような視野の狭い人間の評価よりも、新たに触れられた方々の声にこそ、『暗闇ダンス』及び須田51のセンスが純粋に反映されているのだと思うし、自分もそこに興味がある。こう考えつつも、やはり自分は独善的に『暗闇ダンス』にインスピレーションを得る。『THEビッグオー』、『Serial experiments lain』、『残虐行為展覧会』、『競売ナンバー49の叫び』、そして『花と太陽と雨と』や『キラー7』が持っていた、あの不明瞭なヴィジョンと共に... どうでもいい推測。 (16.2/7) |
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