文体らしきものがないからマネっぽくなる

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文体と書いてスタイルと読ませるほどの個が、自分にあるとは思えない。いざ自分が面白いと思う文章を読んだとき、書き手が「自然体で書いてるだけです」とか言ってると、そんなバカなッとなる。なるが、そういうもんかとも思う。面白いか否かとは別に、文体とは自然に作られるもので、読み手によって探し出されるものかもしれない。

それにしても、あまり他人の文章を読まなくなった気がする。なんせメディアにアップされたり商業出版されてるもののみならず、最近のブログやnote、ジンとして発表されるものはいずれもクオリティが高く、自分の文章と比べてやる気をなくす。それに加えて、文章の内容が時流を反映したものとなると、他者に深入りしないよう生きている自分とその肩身の狭さに気付いて疲れる。一応自分が少数派であることの自覚があるからだ。象牙の塔にいるとか隠遁者気取りとか言われたことは一度もないが、世間に興味がないのはそんな生活を過ごせる余裕があるからだと指摘されても、一面的には事実だから認めざるを得ない。少なくとも経済的な余裕などはないし忙しいことだらけなのだが、後ろめたさのようなものがないわけではない。天気のいい日に荒天の場所をニュース越しに見てる時の気分に似ている。

そういうわけで、いろいろ考える自分に気付きたくないのである。我執を反映させた文章になることは極力避けたい。データ重視、事実の列挙を目的とした文章はそんな自分に合っている。そんな文章にふさわしい文体というものがあるとすれば、木下是雄『理科系の作文技術』(1981)は一つの規範になっている。ふだん自分が理科系のトピックについて書くわけではなく、作文を細かいプロセスに分けて組み立てる書き方が、たくさんのデータを集めては並べ替えつつ一つの流れを作っていく自分の仕事に適しているからだ。資料性に特化したものを書くときは、木下が『理科系の~』で「目標規定文」と呼ぶ、文章の主題を要約した文へと帰結できる内容にする。
ここまでの文章の時点ですでに兆候が出ているが、とかく冗長にするのがわが悪癖であり、我執がすでに出ているとしたらここだ。仕事や研究という固いことばが自分に合うとか思っておきながら、アカデミズムの世界を志向もしなければ入っていく頭もないので納得の結果となる。このたゆんだあり方が自分の文体だとすれば、せめてそれを律すしようと持ち出されるのが目標規定文である。

資料性第一の文体を維持しようとする反動なのか、こうしたささいな日記やレヴューではエッジ(文章の形を定める枠のようなもの)がたゆんだ結果、ヘンに詩的な文体となる。あまりに己の色で彩りすぎると、それまでに吸収してきたものがモロに反映されるため、後々見返すのが恥ずかしい(辛い、ではなく)。現に今では、他人どころか自分の書いた文章さえほぼ読み返さなくなってしまった。
ここでエッジがゆるゆる、先人のトレスめいた瞬間さえある文体は具体的にどこから来ているのかを考え直してみた・・・。

色川武大の文体はエッセイから小説に至るまで独白的である。他人に読んでもらう前提で書かれているのは当然だが、自分だけが理解していればそれでいいという風な孤高の領域がある。
交誼に恵まれていた色川は、友人知人について書く機会も多かった。対象は井上陽水や和田誠(『麻雀放浪記』を映画化した)など歌手から作家まで多岐にわたるが、ほとんどが社交の場、酒の席での顔を書いたものであり、彼ら彼女らを特別な才能を持っている人間として強調するものは存外少ない。交友に特化した文章は、まるで色川の開いたバーに友人たちがやってきてリラックスしている景色さえ浮かぶ。Talking Headsの「Heaven」という曲は、天国というバーにいろんな素敵な人が集まって~って感じの歌詞だが、これと似ているかもしれない。そこでは文学その他表現についての在り方を話すなどの形而上的な議論よりも、終戦直後の暮らしぶりだとか、過去現在問わず現実について話しているものが多い。
博徒・非カタギ人生のギラついた期間が有名(とはいえその期間は終戦から出版社勤務になる1950年の間でしかない)だが、文章を発表するようになってからの色川は少し低めの平熱を保った石のような人間であり、文体である。『麻雀放浪記』一つとっても、主人公の坊や哲は熱くなりたがってるし実際に熱い内面の持ち主だが、その欲望が表面的に噴き出すような場面はほぼない。目に見えて熱いのは色川が見てきた名もなきアウトローをモデルとした人物たちであり、色川自身彼らを横目に見てきた傍観者だという自覚があることを教えてくれる。代わりに色川に常態しているのは「非」主流の気持ち、才を持たぬ凡夫にして、さらにその中での少数派だという自覚である。この現実を燃料にして真っ向から向かっていくのではなく、その「違う」という現実が己を形作っていることに実感を抱いている。わたしもそうであるし、それしかないという気分である。決して凡な己を認めてほしい、多数派じゃなくてもやれるんだぞと見返してやりたいわけではない。しかし、自分の頭の中を何かしらの形で出力したくてたまらない。これはわたしがジン~自主制作をやめられない理由にもなっている。
この執着の表現方法を色川はある時期に「厭」という漢字で表していた。正確には「反戦ではなく厭戦」として戦争を二元論的に考えるのではなく、それ自体を忌避するという文脈である。「厭」は「嫌」(HATE)ではなく「NO」。NOとはアメリカの芸術的アウトロー、ボイド・ライスの座右の銘であり、ゆえにわたしにとって二人が生き方の指標の一つになっている。

次は20世紀末アニメの次回予告。レンジの広い書き方だが、厳密には80年代から2000年のものを指す。21世紀最初の5年間以降はアニメもあまり見なくなった。
次回予告とは次週放送分の内容を要約するものである。サザエさんはタイトルだけ教えて、あとはじゃんけんを要求してくるが、あれでもまあまあ気になるな。とはいえ、何か予想させてくれる文や映像があるものはやはり訴求力が高い。個人的によい次回予告の条件。1・BGMは主題歌のインストではだめ。専用のものが望ましい。2・本編登場人物ではなく、ナレーターがよい。そのパートのみのキャスティング、とも換言可能。3・芝居調の堅苦しい物言い。
この3つは短いレビューを書くときに影響が如実に出ていると思う。内容を圧縮し、全体的には短めの内容かつかっこつけた言い回しを志向する(するはいいが、ボキャブラリーの貧困さからスベることも多い。だから後になって見返さない)。内容を圧縮すると、自然に歯切れのよい文章を目指すようになる。だから送り仮名や倒置などもリズムというか読んでいて気持ちよくなることを優先する。日本人には七五調の音律がしみついているいう指摘はよく見かけるが、なるほど書いて発音してみるとそれを実感できる。『装甲騎兵ボトムズ』『ハーメルンのバイオリン弾き』『銀河疾風サスライガー』『TRIGUN』『スクライド』『ターンAガンダム』あたりは結構影響を受けているな。

忘れてはいけないのがAmazonカスタマーレビューとCDジャーナルのデータベースからの引用。なぜAmazonに登録されているCDのキャプションに『CDジャーナル』のデータベースから引用したものが添えられているのだろうか。そもそもデータベースってなに?と思いつつ、中3くらいのころからずっと目にしていた。「価格破壊」と「あほだら経」いう語はBUDDHA BRAND『人間発電所~プロローグ~』(CD)へのコメントで覚えた(自分で使ったことはない)。代引きしか使えない中学生~高校生としてはマーケットプレイスで買いたいものが日に日に増えていったものだ。
「本の内容ではなく宅配業者の不手際に対する低評価なのに、客観的には本に対する☆1つになっちゃってる」という景色ばっかり目立つようになったカスタマーレビュー欄だが、ブログやnoteのように発表できる場所が乏しかった時代は面白い文章を置いておける場として機能していたのではないか。今では活躍しているあの人もここで書いていたな、というケースも多々思い当たる。
140字内で魅力を伝えるために情報を圧縮するtwitter/Xや、より短い時間のtiktokへの移行は手軽さが加速したとなれば順当な結果かもしれない。だが、コメントを書いている人間の匿名性はカスタマーレビューの方が高かった。たぶんレビューを書くためだけの場という認識があり、コミュニケーションの場とは見なされていないからだろう。投書箱的な感じである。だからこちらのほうが文章に集中できる。
とここまで書いて思ったこと。文章ではなく書いている人間を真っ先に探して、バイアスを作り出してしまう読み手=自分に問題があるんだろうか。また自分に戻ってきてしまったと疲れつつ、そんな習性が身についてなかった若かりし頃、インダストリアル・ミュージック関連のレビューをつけまくっていたK-ARCHIVEなるアカウントには大変お世話になったことを思い出した。あの文章たちは、どんな音楽かだけを教えてくれる内容だったし、自分もその役割を文体として残していこうかと。

戻りまっし

(25.12/18)