野中モモ『デヴィッド・ボウイ -変幻するカルト・スター-』増補新版

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野中モモさんの『デヴィッド・ボウイ -変幻するカルト・スター-』増補新版を買う。2016年の逝去以降の動向については2025年までレンジが伸びているほか、他章にも加筆があるため旧版を持っている人も是非買うことをお勧めする。
ニッチなテーマについて書いていると、その情報の少なさから能動的になった読者たちに助けられていることを忘れがちだ。アレイスター・クロウリー的にいえば「求めよ、さすれば与えられん」を地でゆく人は、こちらの仕事の穴を黙して埋めながら読んでくれるのである(だからといって甘えてはいけない)。だが、アーティストや一ジャンルの通史、それを知らない人に知ってもらうための入り口としての本を書くとなると、そんな慢心の芽は許されない。ましてやそれがボウイのようなメインストリームを舞台にしながら、クロウリー的神秘を忘れなかった人ならばなおさらである。データにのみ偏ると謎を腐らし、謎に頼れば今度は情報としての価値を損なう。

ボウイは常に興味の対象を増やし、その思索を音楽やヴィジュアルに置換してきた。言い換えれば豊富なパターンの暗号を用いてこちらに発信し続けてきた。思索は自分にはわからないことがあるという告白であり、その疑問が暗号または呪文としてボウイのアートになる。アクセスしにくい事柄および世界への入り口になるのがアートの役割とするなら、ボウイが手がけたあらゆるものがそうである。だが、それは本当に入り口でしかなく、結論まで導いてくれるようなことはしてくれない。これが先に書いた、通史を書くことの難しさとして返ってくる。
これへの対策の一つが、ボウイに影響を受けた人やジャンルについて書くことだと思われる。ボウイの世界が受け手の中で別の文脈へと発展していったことを証明する作業、といってもいい。『変幻するカルト・スター』の場合は、所謂ロック史観のみで語りがちな従来のジャーナリズムにはなかった、少女漫画およびその読者たちへの影響が書かれている。他分野への影響は、音楽は音楽のためにあるのではないこと、受け手は送り手に首肯するだけの存在でないことの証である。

わたしがボウイの存在を実感したのは、月並みだが音楽の世界でインスピレーション源とされ続けていることになった。QUEENやトレント・レズナーとのコラボレーションはあくまで曲どまりの関心であったが、サイモン・レイノルズ『ポストパンク・ジェネレーション』がすべてを変えたといってもいい。あの本の序文では、とりわけベルリン在住時代のボウイとイギー・ポップ、そして当時彼らをプロデュースしていたブライアン・イーノの重要性がくどいくらいに主張されていた。音楽として表出した結果ではなく、その過程に含まれている幾多ものアイデアや知識を探す習性は、同書のボウイをめぐる文章に育てられた。ジャーマン・ロックもアレイスター・クロウリーも、ボウイのような回路がなかったら「なんとなく知ってる」レベルで終わっていただろう。そして『ポストパンク・ジェネレーション』を日本語訳したのはほかの誰でもない『変幻するカルト・スター』著者の野中さんである。この本が書かれるのも、わたしが手に取るのも必然、と考えることがボウイ式暗号への回答となった。

本とは関係ないが、はじめてベルリンに行ったとき(ボウイが没した年であった)に外で人を待っている間、手元のスマホに入れていた「Heroes」を再生したことがある。小雨が降っていて、フィクションのワンシーンのようだった。スティーヴン・ステイプルトン(Nurse With Wound)にインタビューした時は、「イーノと組んでからは好きじゃない、『Hunky Dory』の「The Bewlay Brothers」が好き、『★』もイマイチ」と話してくれたが、世の新譜にまったく興味のない氏が『★』に手を伸ばしていたのは意外かつ良い話だった。


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(26.2/3)