福満しげゆき『僕の最後の失敗』

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著者の単行本を買うって、下手したら20年ぶりじゃないかしら。ちょうどわたしが高校を卒業した2006年時分に、それまでの『アックス』誌向け内容からエッセイ、ていうか妻漫画にシフトして、『ファミ通』で4コマも描きはじめたころから福満センセイとはご無沙汰であった。まともに読んでいたのは『生活』が最後。それ以降の動向は本当に妻漫画という印象しかなかったのだが、この20年近く、めちゃくちゃ単行本を出してて、しかもそれがほぼ全部妻漫画っていうのにビックリした(今ではそこに子供が加わっている)。

押切蓮介が自分のノスタルジーを粘土のようにこねて別の物語として再創造していることに対し、福満センセイは主題がそれ、つまりはノスタルジーに向き合う自分自身になっている。令和の時代にドラクエ3~4発売当時を引きずり出すのは、むしろ加齢傾向にある日本社会では自然なのかもしれないが、そこにオタク的なフックはない。「お姫様の使う2回攻撃の武器が気持ちいい」というセリフからもわかるように、特定の武器の名前や名シーンが紹介されるわけもなく、ひたすらに遊んでいる自分にライトをあてている(ちなみに当該の武器はキラーピアスだと思われる)。つい最近まで『タクティクスオウガ』やって(リメイクもオリジナルも)、『クロノクロス』のHD版買ったまま放置して、中国製ガジェットでレトロゲーム遊んじゃってるアラフォーとしては他人とは思えず。おまけに、それをタネにした文章を売ったばかりであるため、知らずしてセンセイと同じラインに立ってしまったと錯覚し、感慨にふけ、不安へとずり落ちた。話し相手の数が加齢とともに減っていっているのも原因か。それにしてもセンセイ、フリーランスならnoteとかkindleで自費出版もできると思うのだが。

自虐的に描いてはいるが、各エピソードの締め方は一貫して前向きだ。灰色の景色がノスタルジーという色彩によって、豊かになっていくといえばいいか、ちゃんと結論のあるエッセイになっている。たとえば古い『ファイナルファンタジー』に夢中となり過去に落っこちたと思ったら、妻が同シリーズの最新作を持ってくるという展開。過去と現在がつがいであることが描かれている。決して自分を客観視できていない、妻におんぶの中年の泣き言というわけではない。や、ガワはそうだが、それはわかっているからこそなのだ。じゃなかったら20年近く同じようなマンガ、同じようなエピソードを描けないだろう。

少し前に読んだ清野とおる『スペアタウン』(と最近連載している、あちらの妻漫画)と比較してしまうのは、わたしだけではないはずだ。よくわからんマンガを描いてはすぐに終わって、安パイ(失礼)として自らのゲーセン体験を物語化している押切センセイも例外でなく、売れるとかいろいろあるにしても、結局は今日の自分がゴールにもなっている。過去のモトをとりたい、無意味じゃなかったと思いたいと焦りながら、福満センセイいうところの「自分を食べていく」作業に励むのである。その部位はほとんどが過去である。食べたらスカスカかもしれんし、味がしないかもしれんが、味わい方に経験が出る。平凡な読者からすれば、それを体得しているセンセイは成功者だし、そこにイヤミを感じないのが何よりの財産ではないか。

最後に、福満センセイのマンガ、特にエッセイ以前のそれは手塚治虫のスターシステムと同じ仕様になっている(読み始めた時期がほぼ同じな黒田硫黄もそうなのだが、これも90年代末からの昭和リバイバルの一端か)。つまり、同じキャラクターが作品ごとに違う役割をもって登場するもので、今回のマンガでも見覚えのある人たちがちょくちょく現れる。中学時代の理解ある同級生だったA部くんは、かなり初期から登場しているキャラクターで、さすがに懐かしくなった。私事だが、わたしの小学校時代の変なゲームやマンガばっかり好きだった同級生もイニシャルがAで、しかもA部くんと同じように中学からバレー部に入っていたのだから奇妙な縁を感じた。

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(25.6/4)