渡英前のゲン担ぎとしては滅茶苦茶だが、オーストラリアから渡英して名を馳せたバンド、The Birthday Partyのドキュメンタリーを駆け込みで鑑賞した。あくまでバンドの一生を追うものなので、人となりや当時の制作環境をたどることに徹している。ニック・ケイヴの世界観と、それが時代といかにかみ合ってきたかといった考察は2014年に公開されたケイヴ個人のドキュメンタリーをあたった方がよいだろうか。あちらはもはや冒頭にルイス・ウェインの絵が出てくることと、ブリクサ・バーゲルトと一緒に車に乗っていることしか覚えていないが。 ケイヴへの偏りを避けた結果か、逝去したローランド・S・ハワードとトレイシー・フューのバンドの貢献を強調する場面が多かった。改めてその死を悼む意図もあったか。彼らとの関係、緊張とも言い換えられるそれがあってこそのBirthday Partyだったようだ。 仮にバンドが当時のロンドンに幻滅したとしても、ロンドンや西ベルリンといった土地が持つ空気がバンドを育てたのは否定できないだろう。退廃が情熱的に表現された時代というべきか。ドラッグの常習はその一幕であり、今日では寓話の域を出ないが、すでに消滅したバンドの神秘性を出すのに手伝っている。挿入されるグラフィックノベル風の再現アニメ(タイニー・ティムのドキュメンタリーでも使われていた作法だが、これは流行りなのだろうか)も相まって、時として現実のフィクション化とさえ呼べる伝説化を後押しするのが音楽だった。アクセントで入るキーボード(「Figure of Fun」)やブラスが50年代のビッグバンド的で古臭く、アメリカでいうCramps的なチープさ(『Junkyard』のジャケットをエド・ロスが描いてるところとか)がたまらない。タムを主軸にした疑似リチュアルなバッキングは、ブルンジを取り入れたBOW WOW WOW~アダム・アントとのシンクロし、Talking Headsのようなバンドがアフリカのエッセンスに手を出した時代だったのだと思い出させてくれる。だが、Birthday Partyの場合はインテリの思考実験としてのトライバル化、なんてものではない。エクスタシーとさえ呼べそうな本能的な快楽を誘うリズムだ。「Release the Bats」と『Junkyard』収録の「Big Jesus Trash Can」が大音量で聴けてよかった。どん底でのた打ちまわる内省、その出力が「Release the Bats」「Kiss Me Black」のような乱痴気な曲であることが痛快だ。低温火傷的なパワーを放つJoy Divisionとどちらが好きか?今の気分はBirthday Partyだ。 バンドへの宗教的な人気を後押しした『Prayers on Fire』や一連のMVは古代宗教の祭儀的な瞬間があり、ここにもまたエスノな時代を見ることができる。しかし、キリスト教圏ゆえに神とその教義へ懐疑的に執着するケイヴの詩、その牢獄的世界観は不思議なことに現代のほうが身近に感じられる。トマス・リゴッティのような作家がアメリカから生まれ、静かにその影響力を高めていることはその証拠ではないか。そして二人はCurrent 93の『All The Pretty Little Horises』で共演している。 わたしはBad Seeds以降のリリースをそれほど把握していない。だが2016年の『Skelton Tree』以降は聴くようにしているし、2019年の『Ghosteen』はいまだ咀嚼しきれぬ大作だと思っている。極厚の小説のように、頭から通してで読むことに消極的になり、部分的に、つまみ食いするように聴いてしまっている。Birthday Partyの音楽に対しては、こんな風に時間をかけて味わうようなことはしない。もちろんこちらが今と比べて軽薄な音楽だ、などというつもりはない。バンドが表現しきれなかった、というより火花のように消えては再び爆ぜてしまう時期を経たからこそ、今のケイヴの音楽がある。それを誰よりも理解しているのは残されたメンバーたちだろう。 (25.5/15) |
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