暗闇ダンスについての記事をBecomixに寄稿しました

面白いマンガ沢山あります

今年超限定的に我がレーベルからCDrを出した不逞社(FUteisha)ことホアン・スカッサがスタッフとして参加しているマンガのデータベース『Becomix』に記事を一本寄稿した。イタリアやフランスのマンガが多く登録されているデータベースだが、つい最近オープンしたばかりなので、後々国籍問わず登録されていくことだろう。日本のもので何か登録するついでに記事を書いても良いということだったので、昨年ずっと読んでいた『暗闇ダンス』について書かせてもらった。イタリア語に翻訳までしてくれて世話になりっぱなしである。一応日本語記事も閲覧できるが、改めて以下に転載した。ちょっとだけ内容が変えてあるけど、そんな差異を指摘するような人は恐らくいないだろう。

ノアールは日常から遠ざかった光景と時間を描く。ヴィデオ・ゲームというフォーマットは映画や小説と違い、その世界そのものにプレイヤーが干渉できるようになる。疑似的にその世界の住人になれると言っても良い。ゲームデザイナーSuda51は正にノアールと言える世界観に、70年代末以降のカルチャーを混ぜ合わせた奇妙な作品を生み出し続けてる。『暗闇ダンス』はノアールの中で踊り、夢を見る時間を描き出しているが、ゲームではなくマンガだ。かつて須田を魅了してきた作品が出た時代には存在していなかったゲーム。須田は自らの原体験として数えられるものたちに並ばんと、マンガに挑んだ。
カフカの『城』をモチーフにして、その上にレイヴ、ポストパンク、ロボット・アニメに代表されるオタク・カルチャー的なアクションがmixされた混沌の世界は淡白な絵によって中和され、ドライな雰囲気を醸しだす。まるでスライドショーのように。。

『暗闇ダンス』は須田剛一と竹谷州史による作品で、かつて須田が作る予定だったゲーム『KURAYAMI』のプロットをリライトしたものがシナリオに使われている。『KURAYAMI』以外にも、須田が過去に手がけたゲームの要素が沢山盛り込まれている。
主人公の航はスピード狂ゆえの好奇心から、バイクで時速300キロの世界を見た。死に限りなく近付いた結果、彼は3年間の昏睡状態に陥ってしまう。目覚めると住んでいた街の向こうに巨大な「王国」が出来上がり、多くの人々はそこへ移住してしまった後だった。航の仕事は葬儀屋で、仕事に復帰した彼は王国へ棺を届ける依頼を自ら引き受け、霊柩車で彼の地に向かう。事故から目覚めた時、航にしか見えず、彼としか話せない幻覚、後に作中でシャリアと名付けられる彼(?)が相棒となり、バディ・ムービーは始まる。

『暗闇ダンス』のストーリーは航が王国へとたどり着くまでに経験する出会いと幻覚と目覚めの連続だ。メインテーマは死そのもので、実際に葬儀屋として働いていた須田が当時感じていた「死」への感覚は、そのまま航に投影されている。ストーリーは、死があるからこそ、それ以外の時間があるという観点が貫かれている。自暴自棄、破滅主義、退屈な現実こそ幻覚という視点は須田が心酔するロック・バンド、Joy DivisionのIan Curtisの世界観から汲み取られたもので、須田が尊敬する先人たちの多くはIanのように早くに亡くなってしまった者だ。しかし、その死そのものを賛美しているわけではない。生きたまま死ぬことから離れるために命を燃やす、この矛盾しているような試みに須田は魅せられ、己自身にそうであれと命じている。それは、航が繰り返すセリフ、「ここからの人生は延長戦だ」に集約されている。死はあっけないものだが、見過ごしてよい程軽くはない。

須田は多数の趣味を持ち、それをコラージュのようにストーリーへ貼り付けている。先ほど書いたように、彼はJoy DivisionやNew Order、The Durutti ColumnやThe Smith、そしてNirvanaといったバンドを好み、彼らの主義や思想を登場人物に流し込む。Kurt CobainやIan Curtisが辿った自殺という結末は須田にとって非常に大きなモチーフとして在り続け、彼は作品の中で何度もそれを否定することで自らの意思を表明する。更に、
Ian Curtisも愛読していたJG Ballardの『CRASH』、『The Atrocity Exhibition』、William Burroughsのカットアップのように、ストーリーや人間同士のやりとりは理屈や筋道を省略し、イメージがダイレクトに描写され続ける。航の自殺的な疾走、幸せの果ての拳銃自殺、永遠に死に続ける幼馴染、新しく刷り込まれる過去、存在の不確かな友人と母親。混乱したプロットに囲まれ、航の決断と感情だけが『暗闇ダンス』で唯一確かなものとなる。伝統的な日本のマンガとは異なる、極端な多様性をカットアップ的に配置することで、そのシチュエーションはサイケデリックとも呼べる域に達している。漫画のように、たくさんの絵が並んでいるメディアとの相性も良い。
『Killer 7』などの、須田の代表作を遊んだことがある人は、この瞬間的な快感の連続を彼の魅力だと考える。めちゃくちゃにコラージュされた『暗闇ダンス』のイメージを上手くマンガに出来たのは、竹谷の絵があってこそだ。Joy DivisionやSmithの内省的または刹那的な世界観が、美しい曲に乗せられることで受け入れられたように、バラバラになる寸前の『暗闇ダンス』を繋ぎ止めているのは絵の力が大きい。その危ういバランスがこの作品の魅力でもある。

しかし、バランスを保ち続けることは、こうした作品のアイデンティティを破壊する。だから『暗闇ダンス』が2冊で終わったことは必然であり、美しい結末だ。終わりが近づくと、ストーリーの破綻は更に強くなり、1年かけて描くストーリーが1週間に圧縮されたように感じる。
あまりに突然すぎる展開のシナリオが、転じてカットアップ的な作品を唯一無二にのものにしている。最終話を見た後にまた第一話を読んでみると、両者はほぼ同じものだとわかるだろう。『暗闇ダンス』は第一話で既に完結している一方で、最終話は終わりではなく航の日常の息継ぎ、ヴィデオ・ゲームで例えればセーブポイントなのだ。


『暗闇ダンス』は内容も作画もヨーロッパ圏で受けると思うので、ローカライズを願っている。

ホアン・スカッサについては、こちらにインタビュー記事がある。なんと私についても言及してくれていた。肩書を盛り過ぎていて恥ずかしいのだが、今後も彼とは何かやるつもりなので注視していただきたい。彼は大学院時代を京都で過ごし、そこから日本の文学や歴史に関心を持った。不逞社もアナーキスト史ではお馴染みの金子文子らの組織から引用されている。カレント93のファンということから知り合い、音源の提供からBecomixへの寄稿まで、やれることは大体やっている。

(17.8/20)

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