阿佐田哲也・色川武大エッセイ集

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久々というほどでもないが、阿佐田哲也/色川武大のエッセイ集を読み返した。歳を重ねるごとに書かれていることが我が性を言い当てられている気がしてならない。私の読書量などわずかなものでしかないが、本との対話は人と同じように時によりけりで、読み返すたびに印象が変わることはしょっちゅうである。それは複数の角度から瞥見できるようになったことの証拠でもあるのだが、阿佐田の文章は最初に目を通した時の感触が純粋なままであり、古く感じることがない。それどころか、より深い域まで汲み取れる気がしてしまうのだ。本とは汲めども尽きぬ泉である(ショーペンハウアーだか誰か)、を実感できた数少ない作家の一人というほかない。

自分の周りにいる著名無名問わずの大物たちを称えている『俺のまわりは天才だらけ』では、「困り切っているうちにもう50も過ぎて、風格が漂っている。駄目にも風格というものがあり、私はそれでメシを食っているのだろう」というくだりがある。初めて読んだ10代の時よりもずっと肉迫するラインだ。私が阿佐田のような人間になれるとは到底思えないが、人に本を買ってもらって時に投げ銭までしてもらう身分になると、自信と責任が一体になったような感情が湧く。さらに、「それ」とつがいとして、阿佐田がいうような「駄目の風格」に値する、ちょっと卑屈ともいえる感情がついて回ってくる。大して褒められることのないまま三十路に達してしまったせいでもあるのだろう。素直に喜ぶこともできないが、ひたすらにスネることもできない。なんとも宙づりな気持ちを持って今の筆業を続けている。大学や博物館の研究員でもなし、それこそ阿佐田のような無頼派になれるわけでもなし、しかし、今日まで運よく続けられている事実を無視するわけもなし。「自分で決める」だとか勇猛な言に気おくれする私には、多少傲慢で生存者バイアスと称されるような無邪気さを匂わせるにしても、「やることやってたらこうなった」という無責任な説明が合っている。「自分流に生きようって情熱が、破滅に向かっていくらしいんだ」(『最後の無頼漢』)。長生きして、今の生き方を続けた上でこんなことを言ってみたいものである。その時、初めて自分の生き方に自信が持てるかもしれない。


オタオタしてやってるのは博打じゃないんだ

(21.6/16)