夕方時の『The Angelic Conversation』

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夕方時にデレク・ジャーマンの『The Angelic Conversation』DVDを再生していた。いざ再生したら開始10数分で眠たくなってしまい、ぶつ切りの鑑賞となった。自分は映画を観たり交通機関に乗るとたちまち眠くなって意識が半分覚醒したままの状態になるのだが、スーパー8による撮影によってコマ送り的絵運びになっているこの映画には、まさに意識が飛びかけの視界にそっくりな景色があると思う。この曖昧さは記憶の中の映像のようであり、それゆえに一切古くならない。
 ジュディ・デンチが朗読するソネットで告げられているように、冬と夏の間に生まれ得る愛への期待と退廃があり、この映画はそれそのものである。どんな悲しみを経ようが、どんな喜びを知ろうが、これらはいったんの終わりを迎えてはまた還ってくる。

COILが音楽を手がけているという理由からこの映画を知った。視覚的な意味での美しさには抗いがたいものがあり、最初に観た時はここに映されている人々がどこから来たのかなどは考える余地がなかった。表面的な美とやらにただ見惚れるのが自然だろう。だが、当時AIDSの脅威と偏見に襲われていたCOILやデレク・ジャーマンらの個人的葛藤を知った今では、それが無意識レベルで浸透している映像、その明滅に力強さも感じるようになったのだった。生への欲求と一個人の死(の可能性)という相反は、夏と冬、過去と未来という時間によって担保されている。朗読が示すように、時計の針は痕跡を残さないまま時の進みを提示し、失われる命、消え失せる愛も同じくらいに儚いことが強調される。だからこそ自分の記憶の中だけでしか生きてない人間や残っていない風景が、たまらなくいとおしくなる。

「Never」。後半のキスシーンを彩るCOIL珠玉の一曲。映画でも使われているベンジャミン・ブリテンの楽曲をフェアライトで刻んだものだと思うのだが・・・そんな推測はどうでもいいな。この楽曲を超える繊細さは、後のCOIL当人らをもってしても表現できていなかった。ただ歩いているだけの男たち(ジャーマンはこの映画を「散歩的」と形容している)の行水と、意味深だが何を考えているかわからない険しい表情のコントラストを音で表したかのようだ。見聞きする者を圧倒し征服するような刺激はない。ただ、映像と、それにとって沸き立つ自分の内面に沈んでしまいそうになる。

最初にマスターベーションをした時が思い出せない。最初に同姓と(バーテンダーのバイトをしてる人。過失というか相手が勢いで来ただけだが)キスした時もさほど強烈な記憶ではない。フィクションでこうした場面を見た、というか読んだのはヘルマン・ヘッセの『デミアン』がはじめてだった。これらの記憶はごちゃまぜになり、それぞれがどこから来たのかという事実に到達できない。いまやそれらは『The Angelic Conversation』の映像のようにパタパタと動く残像群として頭の中にある。薄々と感じるのは、これらが映画でいうところの「夏」にあたる瞬間だったのではないかということ。劇中で朗読されるソネットが、シェイクスピアがいう。「自らを見つめ、自らを呪うとき/希望に満ちた誰かになりたくて、彼のように、友人たちに恵まれた彼のようになりたくて/彼の芸術、彼の見るながめほしさに至上の喜びさえも不満に思う」。


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(23.6/18)